東京工業大学博物館

東京工業大学博物館(東京・大岡山)のnoteです。ここでは、展示品の解説や、刊行物などの情報を共有していきます。

東京工業大学博物館

東京工業大学博物館(東京・大岡山)のnoteです。ここでは、展示品の解説や、刊行物などの情報を共有していきます。

    マガジン

    • 企画展示解説

      東京工業大学博物館の企画展示の解説を集めました。

    • 資史料館 とっておきメモ帳

      先端技術の開発だけではない、東工大の知られざる一面を紹介します。

    • 東工大の三大発明

      東京工業大学博物館に展示中の資料のうち、「東工大の三大発明」と称される研究に関する解説を集めました。 「東工大の三大発明」と呼ばれている研究成果には、水晶振動子に関する研究、フェライトに関する研究、ビタミンに関する研究があります。

    • 東工大と機械

      東京工業大学博物館に展示中の資料のうち、機械分野の研究・教育に関する解説を集めました。

    • 展示解説

      東京工業大学博物館に展示中の収蔵品の解説を集めました。

    企画展示解説

    東京工業大学博物館の企画展示の解説を集めました。

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    ナノファイバーが創る地球環境 谷岡 明彦

    はじめにナノファイバーとは、直径が1nmから1000nm(注1)、長さが直径の100倍以上の繊維状物質(毛髪(約Φ0.06 mm = 60 μm)の100分の1から1000分の1の太さを持つ超極細繊維)です。ナノファーバーはアキレス腱、骨、遺伝子などのように身近に存在するものですが、工業的にも作ることができます。工業生産方法としては高電圧を使用するESD(Electro Spray Deposition:一般的には電界紡糸法とも呼ばれ溶媒に溶解した高分子を利用)や異なった高分

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    コガネムシの色鮮やかな体表を化学する -生物ナノマニュファクチャリングの不思議の世界  渡辺順次

    はじめに 展示物①のコガネムシを眺めてみてください。まずはそのメタリックな色に目を奪われます。メタリック色とは反射光の強度が強いということです。また、見る方向を変えると色が変わることにもすぐに気が付くと思います。垂直方位から水平方位へ目を移すと色はブルー側にシフトします。これら二つの特徴のため、特定の波長の光を吸収して色付く染料とは異なり、ときおり神秘的なほど深く、美しく輝いて見えるのです。 ここで皆さんは、多くの疑問を持たれることと思います。自然科学の研究は全て、なぜ?か

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    資史料館 とっておきメモ帳

    先端技術の開発だけではない、東工大の知られざる一面を紹介します。

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    戦地をくぐりぬけたボート部のメダル

    東工大の端艇部(ボート部)はオリンピック選手を出しています 新学期が始まって間もない頃(2018.4.9)、博物館の事務室に電話がかかってきました。電話の主は岩野美惠子さんという方で、お父様の遺品を整理していたら、生前とても大事にしていたメダルが出てきたので東工大に寄贈したいという申し出でした。博物館はノーベル賞以外のメダルの寄贈は受けない方針で来ていますので、「申し訳ありませんが、…」と断りかけたのですが、「戦地で形身代わりに預かったものだと父が申しておりました物でして…

    特定歴史公文書等になった現存最古の入試問題

    関東大震災で蔵前キャンパスが灰燼に帰した半年後の入学試験 本拠地だった蔵前の地を離れて最初に入学試験が行われたのは1924年(今から94年前の大正13年)でした。前年の関東大震災で隅田川のほとり蔵前の地にあった校舎が全焼し,大岡山に移転することになったからです。校舎と共に,図書や文書類の多くも焼失しましたので,蔵前時代の入学試験問題は残っていません。今回紹介するものが,現在 本学に保存されている最も古い入試問題です。 誰も解けなかったと思われる英語の問題等の解説に加え,手

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    『宝島』のスティーブンソンに『吉田松陰伝』を書かせたのは誰か

    それは 松下村塾最後の門下生で,本学の前身である東京職工学校の初代校長を務めた正木退蔵だった 正木退蔵(1846~1896)は萩に生まれ,幕末期に吉田松陰の松下村塾に通った。師の松陰は安政の大獄で捕らわれ,29歳で刑死してしまうので(1859),門下生だった期間はわずか半年ほどだったが,多感な11歳の時で大きな影響を受けたと思われる。 その正木は24才から34才までの大半を英国で過ごした。最初は留学生として,2回目は留学生の引率及びお雇い外国人教師のリクルート役として,明

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    ディーゼル車の弱点を瞬時に見抜き解決した技術者

    ディーゼルエンジンのグロープラグを革命的に効率化したのは本学出身の伊東孝彦で,彼は発熱体の熱容量とエネルギー収支の関係を知り尽くしていた。学生企業家の先駆けでもあった。 非業の死を遂げた父に代わって一家の生活を支えるために,伊東孝彦は高校を卒業するといったん電池会社に勤めた。問題を解決したり新しいアイディアを出したりするたびに,「大学も出ていないのに生意気だ」といわれたことに発奮し,本学に入学した(1956,昭和31年)。家計を支えるためのアルバイトと勉学の両立は厳しく,卒

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    東工大の三大発明

    東京工業大学博物館に展示中の資料のうち、「東工大の三大発明」と称される研究に関する解説を集めました。 「東工大の三大発明」と呼ばれている研究成果には、水晶振動子に関する研究、フェライトに関する研究、ビタミンに関する研究があります。

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    ビタミンB₂の工業的製造の研究 ー星野敏雄・佐藤徹雄

    ビタミンB₂は、1879年A. W. Blyshにより牛乳黄色色素ラクトクロームとして報告された動物の成長促進因子のことです。現在では、フラビン酵素やフラビンアデニンジヌクレオチド(FAD)の形で広く生体内の酸化還元反応に関与している事が知られている一種の補酵素です。その構造は、1936年P. Karrer及びR. Kuhnにより決定され、世界各国で合成研究が行われていました。 星野敏雄(1899-1979)・佐藤徹雄 (1908-1968)両教授は、

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    フェライト研究 ー東工大の三大発明

    加藤与五郎・武井武によるフェライト研究 フェライトとは、酸化鉄を主成分とする磁性材料で、戦前から戦後にかけてスピーカーやモーターの磁石、磁気テープやコンピューターの磁気ディスクなどに使われ、現在でもテレビやパソコン、携帯電話、ハイブリッドカーや風力発電など、電気・電子機器の小型・薄型・高機能化、省エネ・省資源化にも大きく寄与し、現代エレクトロニクス社会を根底から支えています。 フェライトは、1930(昭和5)年に東工大の加藤与五郎教授(1872-1967)と武井武助教授(1

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    東工大と機械

    東京工業大学博物館に展示中の資料のうち、機械分野の研究・教育に関する解説を集めました。

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    理論と実践を噛み合わせた歯車研究 —中田考

    概要中田孝(1908(明治41)年~2000(平成12)年、東京浅草生まれ)は、1928年東京高等工業学校機械科を卒業、翌年4月、新設の東京工業大学機械工学科に第一回生として入学。卒業後は、母校の助手、助教授(精密工学研究所員)、教授、精密工学研究所長を2回勤めました。 中田は、豊かな独創力に加えて、物理的問題や応用数学等に強い興味を持ち、外国文献も積極的に調査しました。1929(昭和4)年頃、歯車運転試験のため水晶のピエゾ効果を使ったトルク計を自作。その試験の理論解析に独

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    ロボット学事始めとロボコン ― 森政弘

    森政弘(1927年三重県生まれ)は、1969年に東京大学生産技術研究所から本学制御工学科に教授として着任しました。 東大生産技術研究所時代の1967年に、研究室内で創造性開発のために「自分が乗って階段をのぼることができる機械」というテーマのアイデアコンテストを企画しました。その時優勝したのは、当時大学院生であった村上公克(まさかつ)君のアイデアです。展示されている6足歩行ロボットは、そのアイデア実現の予備実験として試作された模型で、どこでも歩くことができる機械―Genera

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    生物の動きに発想を得たロボットの開発 —広瀬茂男

    概要広瀬茂男(1947年東京都生まれ)は、1971年、横浜国立大学工学部を卒業し、東京工業大学大学院の梅谷陽二研究室に進学しました。広瀬は、東工大の修士学生として研究を始めたとき、「ヘビは足が無いのになぜ前に進めるのか」を解明することに決めました。 まず初めに、ヘビの運動を文献で調査し、仮説を立て、蛇行運動の基礎運動方程式を誘導しました。そして実際の動きを調べるため、渋谷のヘビ料理屋でシマヘビを買い、ヘビの体に電極を刺して蛇行の形や筋肉の活動の様子を実験しました。その結果、

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    展示解説

    東京工業大学博物館に展示中の収蔵品の解説を集めました。

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    ロボット学事始めとロボコン ― 森政弘

    森政弘(1927年三重県生まれ)は、1969年に東京大学生産技術研究所から本学制御工学科に教授として着任しました。 東大生産技術研究所時代の1967年に、研究室内で創造性開発のために「自分が乗って階段をのぼることができる機械」というテーマのアイデアコンテストを企画しました。その時優勝したのは、当時大学院生であった村上公克(まさかつ)君のアイデアです。展示されている6足歩行ロボットは、そのアイデア実現の予備実験として試作された模型で、どこでも歩くことができる機械―Genera

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    型染絵による美の表現 −芹沢銈介

    芹沢銈介(1895-1984)は、静岡市でも屈指の呉服太物卸商「大石商店」の7人兄弟の次男として生まれ、1913(大正2)年に東京高等工業学校図案科に入学して工業デザインの基礎を学びました。卒業後は、故郷の静岡市に戻って静岡工業試験所の技師として地元静岡の業者や職人に蒔絵・漆器・木工・染色・紙などの図案の指導を行い、その後も大阪府立商品陳列所図案課技師として意匠図案の調査・研究を行い、工業デザイナーとしての実績を積みました。 芹沢は、1927(昭和2)年に柳宗悦の論文「工芸

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    工業図案科の設置と図案教育の重視

    手島精一(1850-1918)は、1894(明治27)年に附設工業教員養成所を設置した3年後に同所内に「工業図案科」を新設しました。その意図は、陶磁器や漆器・木工品、織物といった伝統的な工芸品の近代化と販路拡大には、当時急速に発達してきた印刷技術の応用に適した新たな意匠「図案(Design)」の開発と、それを担う人材の育成が必要と考えたためでした。工業図案科の教員には、当時としては数少ない海外におけるデザイン教育経験者が集められました。 工業図案科の授業では、3年間かけて意

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    蔵前キャンパスの整備

    隅田川沿いの蔵前キャンパスは、江戸時代には幕府の年貢米を収蔵する米蔵が立ち並ぶ「浅草御蔵」と呼ばれた土地で、1882(明治15)年に上野に移転した「浅草文庫」の跡地が東京職工学校の土地として交付されました。その年の12月には洋風煉瓦造の校舎が、続いて拡張された敷地に各学科の工場が竣工し、実業学校としての教育環境が整いました。1890(明治23)年には第二代校長として手島精一が着任し、校名も東京工業学校に改名されました。 隅田川から見た蔵前キャンパス 日清戦争が終結した18

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