見出し画像

特定歴史公文書等になった現存最古の入試問題

関東大震災で蔵前キャンパスが灰燼に帰した半年後の入学試験

本拠地だった蔵前の地を離れて最初に入学試験が行われたのは1924年(今から94年前の大正13年)でした。前年の関東大震災で隅田川のほとり蔵前の地にあった校舎が全焼し,大岡山に移転することになったからです。校舎と共に,図書や文書類の多くも焼失しましたので,蔵前時代の入学試験問題は残っていません。今回紹介するものが,現在 本学に保存されている最も古い入試問題です。

誰も解けなかったと思われる英語の問題等の解説に加え,手狭になりつつあった蔵前を離れ,郊外に新キャンパスを模索する様子や震災からわずか2か月後には授業の再開にこぎつけるという迅速な復興過程も辿ってみました。

秘密の倉庫

大学にも秘密基地があります。そこにはごく少数の限られた人しか近づくことができません。銀行でいえば大金を入れた金庫です。

本学の場合は,残念ながらお金ではなく,入試問題や答案が保管され,日ごろはひっそりとしていますが,センター試験や入学試験の時期には大活躍します。扉はもちろん2重です。スパイ映画に出てきそうな造りですが,その片隅に古い柳行季(やなぎごおり)があり,関係者の間で引継ぎされてきました。

そろそろ資史料館に渡してもいいのではないかということで,譲り受けることになりました。そのの中身が本稿の主題である大正13(1924)~昭和25(1950)年の入試問題だったわけです(図➊)。よく見てみると,設問の形式・内容や問題用紙のサイズ・枚数・紙質などが時代背景をよく物語っていることが分かり,“特定歴史公文書等”として「公文書室」に収蔵することになりました。

画像1

図➊

大正13年(1924)からしか過去問が残っていない理由

本学の創設は明治14年(1881,137年前)ですので,大正13年(1924,94年前)からの入学試験問題(過去問)しか残っていないのは,一見不思議な気がしますが,前年の関東大震災(1923.9.1〔土〕11:58:32頃M7.9,相模湾の北西部が震源)で焼失してしまったであろうことは容易に想像できます。

本学の前身である東京高等工業学校は浅草蔵前にありましたが,そこは地震に伴う火災が猛威を振るった地域でした。新聞社も機能不全に陥りましたが,唯一残った東京日々新聞(現在の毎日新聞)の9月2日号では,「東京全市火の海に化す」,「日本橋,京橋,下谷,浅草,本所,深川,神田 殆んど全滅 死傷十数万」などと報じられています。

昼食時だったこともあって多くの場所で火災が発生し,それが強風に煽られれ(あおられ),ついには本所にあった陸軍の被服廠(しょう)跡地(軍服製造所,現在の横網町公園,最寄駅:JR総武線,都営地下鉄大江戸線の「両国」 or 都営地下鉄浅草線「蔵前」)付近で火災旋風を巻き起こすまでに勢力を拡大して,東京市街の半分近くを焼き尽くし,2日後にようやく鎮火するという大惨事になったのです。

本学の蔵前キャンパスも猛火に襲われ灰燼(かいじん)に帰しました(図➋)。そんな中で人的被害が少なかったのは夏休み中の土曜日だったからです。始業式は9月10日に予定されていました。地震発生直後の様子を記した本学教職員の手記が東京工業大学六十年史(pp.331~333),百年史(通史編,pp.426~430),130年史(p.87)に載っていますのでご覧ください。

応用化学実験室から出火し本館の講堂に延焼する様子やこれとは別に正門方面から襲ってくる市街地の火勢の強さゆえに伝馬船(でんません)で隅田川の対岸に逃れるしかなかったこと,失火責任を感じた化学の先生が,もはや打つ手がない状況にもかかわらず,周囲の制止を振り切って消火のために火焔の中に飛び込もうとしていたこと,河畔まで持ち出した貴重な機器類の見張り番をするために乗船を見送った若者が逃げおくれ行方不明になってしまったこと,さらには御真影(ごしんえい、天皇の肖像画・写真)が吉武栄之進校長と数名の教官によって市川の兵営に運ばれ事なきを得たことなどが記されています。

画像2

❷震災直後の蔵前キャンパス

入試問題はどの科目も紙一枚

色褪せた(いろあせた)問題用紙は94年という歳月を感じさせます(図➌)。大正13年(1924)の志願者は857名,翌年は1257名でした(六十年史,p1064)。

当時の受験生が存命なら,111歳前後でしょうから,ほとんどの人が亡くなっていることでしょう。今は亡き挑戦者たちにまで思いを馳せさせてくれる問題用紙は,人の命の儚さ(はかなさ)と記録を後世に伝える大切さをも物語っているのではないでしょうか。

入試科目は4科目でした:英語(2時間),数学(3時間),物理学(2時間),化学(2時間)。問題を見たときの最初の驚きは「2~3時間で たったこれだけの問題?紙1枚!」でした。しかし,よく見ると,そんなに甘くないことがすぐ分かります。

例えば英文和訳では,古典的名著から1文のみ取り出し翻訳させていますので,超難解です(コラム1)。想像力(創造力)を発揮して解くしかなかったでしょう。コラム1の解説のように,問題文の前後を含めた出題だったとしても歯が立たない難問です。昔の受験生は本当にこの問題が解けたのでしょうか。採点結果が残っていないので断言はできませんが,かなり疑問です。

画像3

図➌

1日目が予選

問題用紙の下に試験日が印刷されています。それによると英語と数学が3月18日,物理学と化学が3月20日で,3月19日(水)が空いています(表1)。

受験生の都合,特に地方から上京してきている志願者のことを考えると,2日間連続にした方がよさそうです。しかし,そうしなかったのには何か訳があるに違いないというわけで,根拠となる資料を探したのですが見つからず,困っていた時に,東工大基金室から耳寄りな情報が寄せられました。

それは,「本学にゆかりのあるご家族が多額の寄付金と一緒に祖父の学生時代のノートも寄贈したいとおっしゃっているので資史料館で受け入れて貰えないか」という問い合わせでした。

明治41年(1908)機械科卒の方(濱本芳友)のノート2冊を送っていただくことになり,寄贈の礼状にノートの持ち主や当時の学生生活に関する情報があれば些細(ささい)なことでも教えて欲しい旨を記したところ,寄贈主(羽田康子さん=濱本芳友の孫)の夫である羽田栄さんの父(冨三,昭和3年〔1928〕応用化学科卒)も本学の出身で,しかも自分史「歩んできた90年の思い出」を執筆しておられることが分かり,その中から本学での学生時代を記述した7章「東京高等工業学校」(入学から修学旅行まで)と8章「朝鮮,満州旅行」(卒業を半年後に控えた3年生の夏)のPDF版を寄贈してもらうことができました。

その中に,入学試験の第1日目と第2日目の間に1日休みが入る理由が記されていました。

第1日目の英語と数学の成績で第一段階選抜が行われ,一般入試の定員の約2倍に絞った上で,翌日に第2段階選抜の受験資格者が発表され,3日目に物理と化学の試験が行われていたのです(表1,赤欄)。短時間での採点はさぞ大変だったことでしょう。

大正13(1924)年度の入学者は262名でしたが,その内の半数近くが推薦,残りが試験による一般選抜でしたから,7倍近い難関だったようです(翌大正14年〔1925〕は9倍超)(六十年史,p.1064)。一般的な受験生は,小学校(6年制)の後,中学校(5年制)あるいは実業学校(5年制)を修了した17歳で,検定料は5円でした(参考: 授業料は年65円)。

年表1. 関東大震災から最初の入学試験まで

画像4

被災状況や大岡山移転に至る経過は年史にまとめられている: 東京工業大学六十年史,pp.331–340; 百年史の通史,pp.425–437; 130年史,pp.86–89。
* 大岡山の仮校舎への移転前だったために,駒場の農学部で入学試験が行われた。翌年からは試験会場は大岡山(写真➍)。

画像5

➍ 大岡山キャンパスで最初に入学試験が行われたのは,大正14年(1925)3月。写真は試験当日の正門付近の様子。

震災後の復興と大岡山移転

2か月後の授業再開:本学が震災から立ち直る過程を表1にまとめました。関東大震災で蔵前の校舎が全焼し,実験装置や図書や標本などすべてを失い,廃校のうわさも流れる中,再建に向けた努力が始まりました。

教室がない上に,下宿が焼失した学生も多い中,授業の再開は頭の痛い問題でした。学生たちを地方の高等工業学校へ分散して預け教育してもらう「分散委託」案が浮上したようです。しかし,「そんなことをしたら,廃校の前提になる」,「学校は建物ではない無形の有機的つながりをもつ団体である。建物はなくとも学校は厳然として存在している」との主張が優勢となり,地方分散委託案は消えました。

そんな中,駒場の東大農学部の一部を借りて,午前・午後の2部形式で授業を再開できるめどが立った時は瞼(まぶた)が熱くなったそうです。研究室に保存していた講義ノートや資料を失った先生方は徹夜で講義の準備をするなど涙ぐましい努力を強いられたようです。

それでも,機器や装置を必要とする学生実験や3年生の卒業研究だけは被害の小さかった他の学校・試験所・会社等に学生を分散委託せざるを得なかったと伝えられています。

大岡山移転(大正13〔1924〕年): 官立学校の中では,震災の被害が最も大きく,キャンパス全体が烏有(うゆう)に帰してしまった本学は,目前に迫っていた大学への昇格が持ち越しになるという憂き目にも遭うことになりました。しかし,学内には再興への意欲がみなぎっており,震災を機に敷地が狭隘(きょうあい)となりつつあった蔵前から新天地に移転・拡充する機運が高まりました。

復興と大学昇格のためには新キャンパスの獲得が最重要課題だと考えた執行部は,5名の土地選定委員を任命し,内密で調査にあたらせ,現在の大岡山を最有力候補地として選定しました。このとき土地委員長を務めた中村幸之助教授が吉武校長の後任として最後の校長を務め,引き続き大学昇格後の初代学長の任に就くことになります。

敷地の整理 ▎大岡山キャンパスの飛び地解消(昭和4〔1929〕年):大岡山に移転した直後の敷地は約30万㎡で,蔵前時代に比べて7.5倍も広くなりましたが,現在本館がある場所が宅地だったためにキャンパスが分断されており,問題がありました(図➎b)。

そこで,現在北口商店街となっている土地(清水窪(しみずくぼ)地域)と呑川(のみがわ)以西の土地(玉川村・碑衾(ひぶすま)町石川端地域)を手放し,それと交換する形で現在の本館地域の土地を手に入れ,大学への昇格と呼応するように本館の建設が始まったのです。

大学昇格時の学生定員は約150名でしたので,本館内でほぼすべてをまかなうことができるように設計されましたが,その後の理工系ブームで本館並みかそれ以上の規模の建物がいくつも建ち,現在に至っています。敷地の整理(飛び地の解消)には,2百数十戸もの民家に立ち退いてもらう必要があり,それも短期間だったために,トラブルになったケースもあったことを忘れてはならないでしょう(実際に土地買収に当たったのは,目蒲電鉄株式会社〔現東急〕)。

画像6

➎a. 移転直後頃の大岡山キャンパスの鳥瞰図。中央上部に富士山が描かれている。

画像7

➎b. 大岡山移転直後の仮校舎の配置図。現在本館のある場所は取得できていなかった。敷地整理後に手放した清水窪地域(現東急ウェリナ大岡山)には,一時期(昭和7年〜昭和14年)、武蔵高等工科学校(後の武蔵工業大,現東京都市大)の大岡山第二校舎があった。

コラム1

和訳問題1の出典と解説

(1) Samuel Griswold Goodrich, A Pictorial History of England, SORIN & BALL, AND SAMUEL AGNEW, 1846.

A feast is prepared. The company sit in a circle upon the ground, with a little hay, grass, or the skins of animals, spread under them. Each person takes the meat set before him in his hands, and tears it to pieces with his teeth. If it proves too tough for this, he uses the knife which is placed in the centre for the common benefit. The meat is served up in dishes made of wood, or earthen ware, or in baskets made of oziers.

The feast is enlivened by music of the harp. Sometimes the great men give feasts, and he is the most popular who gives the greatest. These last until all the provisions are consumed, frequently for several days. A great prince once gave an entertainment, which was kept up without...

和訳の例: 貴族(権力者)たちは何かにつけて宴をもよおす。最良の宴を催した者が最も著名となっていく。

英訳例

(1) Since the middle of the last century, trains and steamships have been used as means of transportation in civilized countries.

(2) However, airplanes and airships were developed at the beginning of the present century, and are now in common use.

(3) About 270,000 miles of railroad lines have reportedly been built in the United States of America.

(4) This represents one-third of the total length of railway lines in the world.

2018年8月(初版)
2021年6月(web版)
(発行) 東京工業大学 博物館 資史料館部門

みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!

最後までお読みいただき、ありがとうございます。 他の記事も、ぜひご覧ください!