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展示解説

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東京工業大学博物館に展示中の収蔵品の解説を集めました。
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2021年5月の記事一覧

フェライト研究 加藤与五郎・武井武

加藤与五郎・武井武によるフェライト研究フェライトとは、酸化鉄を主成分とする磁性材料で、戦前から戦後にかけてスピーカーやモーターの磁石、磁気テープやコンピューターの磁気ディスクなどに使われ、現在でもテレビやパソコン、携帯電話、ハイブリッドカーや風力発電など、電気・電子機器の小型・薄型・高機能化、省エネ・省資源化にも大きく寄与し、現代エレクトロニクス社会を根底から支えています。 フェライトは、1930(昭和5)年に東工大の加藤与五郎教授(1872-1967)と武井武助教授(18

絶対零度への挑戦 —木下 正雄 ・ 大石 二郎

絶対零度は-273.15℃ 高校の教科書に載っているこの数字の小数点以下2桁目の決定打を放ったのは東工大でした。 本学が大学(旧制)に昇格して間もない頃に新設された物理学教室の木下正雄と大石二郎は、測定の中でも最も難しいとされる温度の精密測定に成功しました。 ドイツ滞在中に、日本の温度測定技術の未熟さを指摘された木下は、1932(昭和7)年に東工大に着任すると、大石を助手として呼び、温度の精密測定に取りかかります。既に世界では2つのグループが精密測定用の気体温度計を作り

オートファジーの仕組みの解明 ー大隅 良典

研究概要 オートファジーの歴史は、半世紀以上前に遡ります。1963年、ベルギーの生化学者のクリスチャン・ド・デューブ博士は、細胞が自身の細胞質成分の一部を膜で包み、消化酵素を含む小器官の「リソソーム」に運んで巾着状の小胞を形成し(オートファゴソーム)、分解する現象を観察し、オートファジーと名付けました。 オートファジー(autophagy)という言葉は、ギリシャ語で「自分」を意味する"auto-"と「食べる」を意味する"phagein"に由来します。しかし、生化学的解析など

「電気を通すプラスチック」の発見 ー白川 英樹

研究概要白川は、東京工業大学時代、神原周教授らに学びました。研究室では、助手の旗野昌弘らが1960年代初期からポリアセチレンの研究をしていました。当時のことを、白川はこう記しています。 「神原・旗野グループは、多くの困難を克服しながら電気的・磁気的性質の研究を行い、世界に先駆けてポリアセチレンが典型的な半導体、すなわち有機高分子半導体であることを明らかにした。ただ、粉末を試料とする限り、諸物性の測定には限界があった」 (白川英樹「現代の錬金術-電気を通すプラスチック」IL

電気計測器

展示されている電気計測器類は、長年にわたって電気電子工学科の学生実験室に設置されていたものです。1924(大正13)年や1925年に購入された米国Weston社製の直流電圧計および電流計・電力計などは、1923年の関東大震災後、蔵前から大岡山にキャンパスが移転した際に購入されたものだと考えられます。それが90年もの間、使用可能な状態で残されていたことは驚きです。 長年大事に使われてきた理由の一つに、電気主任技術者制度があります。電気主任技術者は、事業用電気工作物の工事、維持

理論と実践を噛み合わせた歯車研究 —中田考

概要中田孝(1908(明治41)年~2000(平成12)年、東京浅草生まれ)は、1928年東京高等工業学校機械科を卒業、翌年4月、新設の東京工業大学機械工学科に第一回生として入学。卒業後は、母校の助手、助教授(精密工学研究所員)、教授、精密工学研究所長を2回勤めました。 中田は、豊かな独創力に加えて、物理的問題や応用数学等に強い興味を持ち、外国文献も積極的に調査しました。1929(昭和4)年頃、歯車運転試験のため水晶のピエゾ効果を使ったトルク計を自作。その試験の理論解析に独

生物の動きに発想を得たロボットの開発 —広瀬茂男

概要広瀬茂男(1947年東京都生まれ)は、1971年、横浜国立大学工学部を卒業し、東京工業大学大学院の梅谷陽二研究室に進学しました。広瀬は、東工大の修士学生として研究を始めたとき、「ヘビは足が無いのになぜ前に進めるのか」を解明することに決めました。 まず初めに、ヘビの運動を文献で調査し、仮説を立て、蛇行運動の基礎運動方程式を誘導しました。そして実際の動きを調べるため、渋谷のヘビ料理屋でシマヘビを買い、ヘビの体に電極を刺して蛇行の形や筋肉の活動の様子を実験しました。その結果、

ウィットに富む合理主義者 ー清家清

清家清(1918-2005)は、日本近代を代表する建築家の一人です。東京工業大学で教育・研究を行いながら、芸術性と科学技術を融合させたユニークな建築をつくりだしました。絵が得意だった彼は東京美術学校(現・東京藝術大学)建築科に進み、卒業後に東京工業大学建築学科で学びました。 彼の父・正(1891-1974)は、東京高等工業学校(現・東京工業大学)機械科卒で、東京都立大学で教授や学部長を務めました。清家の建築のベースには、芸術的才能と、父から受け継いだ工学のセンスがあります。

「清らかな意匠」を追求 ー谷口吉郎

谷口吉郎(1904-1979)は、金沢の九谷焼きの窯元の長男として生まれ、地元の第四高等学校卒業後東京帝国大学建築学科に進みました。 1930(昭和5)年に東工大建築学科講師となり、1931年助教授、1943年に「建築物の風圧に関する研究」で工学博士号を得るとともに教授に昇任。定年退官後の1967年、谷口吉郎建築設計研究所を開設し、晩年まで精力的に創作活動を展開しました。 谷口の作風は「清らかな意匠」という彼自身の言葉に要約されます。作品は文学碑から工場建築まで多岐にわた

東工大で育った工芸・デザインの先導者達

概要 東京工業大学は、優れた陶芸家・工芸家も数多く輩出しています。本学は、日本にまだ工業が育っていなかった1881(明治14)年に、近代的な科学・技術を身につけ、西洋に劣らぬ優れた製品を創造できる技術者、それもリーダーとなる人を育て日本に工業を起こそうと建学されたためです。 建学当時問題となっていたのは、輸出製品の品質とデザインであり、例えば、陶器は焼成温度が低く、デザインは魅力に欠けていたのです。本学創設の強力な進言者であったドイツ人教師 Dr. ワグネルは、陶器玻璃工科

平野コレクション

平野耕輔(1871-1947)は、東京職工学校陶器玻璃工科を1891(明治24)年に卒業しました。ワグネルに師事し、外国留学後は東京高等工業学校の教授および窯業科長、旧南満州鉄道(株)窯業試験工場長、商工省陶磁器試験所長を歴任して斯界の発展に尽くしました。1940(昭和15)年、窯業学科主任として再び母校にもどり、1943年には初代東京工業大学付属窯業研究所長に就任しました。 当館の平野陶磁器コレクションは、1937年に商工省陶磁器試験所を退官した平野耕輔が、永年蒐集した窯

ホログラム

ホログラフィーは、1948年、ハンガリー生まれの物理学者デニス・ガボール (Dennis Gabor, 1900-1979)によって発明されました。電子顕微鏡のレンズに固有の球面収差を光の技術で補正して、分解能を高めることを提案したのでした。 被写体からの光を写真に記録するとき、写真には光のエネルギー(強度)が記録され、光の波としての性質は失われてしまいます。このため、通常の写真では性能の良いレンズを使って被写体の像をつくり、焦点を合わせて撮影しなければなりません。これに対

本多式熱天秤 ― 本多光太郎

本多式熱天秤は、本多光太郎(1870-1954年)が1915(大正4)年に高温度における物質の化学変化ならびに物理変化を連続的に測定するのに便利な装置として、世界に先駆けて創案・命名され、仙台市在住の成瀬器械店(現在、成瀬器械株式会社)によって制作・販売、終戦前、東北大学金属材料研究所による検定証が付けられました。 太平洋戦争後、本学の資源化学研究所がこの熱天秤を購入し、舟木好右エ門(1909-1988年、後に本学教授・資源化学研究所所長)・佐伯雄造研究室で新金属資源の化学

粒子加速器の研究の歴史

東京工業大学では、1951(昭和26)年頃物理教室において「電子シンクロトロン」の作成を開始したのが、粒子加速器(粒子に運動エネルギーを与えて、速度を上げるための装置)の始まりです。その後、粒子加速器を使う研究分野は、原子「力」と原子「核」に分かれて、粒子加速という学問分野が各々の分野で発展してきました。 「原子力」の研究に関しては、中性子発生装置として「コッククロフト型加速器」(静電場による加速器)が1957年に建設され、主に原子炉物理の研究に使用されました。これは、重