先輩の目を通してみた戦後の東工大史
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先輩の目を通してみた戦後の東工大史

戦争に行かずにすんだ そのぶん変革の荒波は進んで被った

同窓会の会合で最年長者として挨拶に立った人(田中良平)がいた。28年前(1986)に定年退職した名誉教授だが,大学の重要な出来事に関わり,百年史(1881~1981)の編集にもかかわったとなると,資史料館にとってはVIPだ。さっそくインタビューをお願いし,本稿をまとめた。

良平さんは,千葉県の津田沼で生まれ育ち,盛岡の工業専門学校時代に勤労動員として日立の工場で働き,本学受験の時は前日の東京大空襲で交通がマヒし試験会場にたどり着けなかった。米軍による日立工場の爆撃や盛岡の校舎の機銃掃射などをくぐり抜け終戦を迎えた。本学の受験はかなわなかったので,盛岡工専卒業後は陸軍の技術候補生になるための口頭試問を8月初めに受けて合格発表を待っていたが終戦となれば そんな話は“ご破算”で,故郷に帰って何とか近くの工業学校の嘱託教師をすることになった。翌年本学を受験し,和田教育改革の第1期生として歩みだし,20年近くを経て金属工学科の教授となった。この間に,寮問題に端を発した大学紛争のほか,理工分離や長津田移転(現在のすずかけ台キャンパス)なども経験した。教務部長や総合理工学研究科長という重責も担った。良平さんの目を通して,終戦直前と戦後の本学の歩みをたどってみよう。

はじめに

最年長の人が乾杯の音頭をとるのが慣例ということで舞台に上がったのが今回の主人公「田中良平」だった(本学には田中さんが多いので以下では「良平」さんと記す)。蔵前工業会神奈川県支部の総会・懇親会(2014.4.16)でのことだ。比較的若くかつ精悍そうに見えたので,ノーマークだったが,司会者が「昭和24年(1949)金属の卒業」と紹介するのを聞いて,この人にならば,終戦直後の本学の様子を教えて貰えるに違いないとメモ用紙を片手に近づいた。聞けば戦後初の入学試験を受けたばかりでなく,百年史の編集委員も務めたとのことで,願ってもない巡り会わせとなった。懇親会でのインタビューだけでは時間的に限界があるので,日を改めて,2回にわたって話を伺わせていただいた。

戦後初の入学試験は,学科制をなくした最初の入試でもあった。初日に数学の洗礼を受け,しかもその比重が大きいのも今と変わらなかった。数学ができず,2日目の受験は止めようかと弱音を吐いたが,一緒に受験していた友人に励まされ翌日も受けた。化学が思いのほかでき,何とか合格することができたが,友人は涙を飲む結果になり手放しでは喜べなかった。数学の次に受けた洗礼が本学の誇る「和田改革」だった。戦後の理工系教育のモデルとなるはずだった和田教育改革だが,10年足らずで見かけ上破綻し,その精神のみが「くさび形教育」として生き延びざるを得なかったのはなぜか。大学紛争は執行部から見るとどうだったのか?すずかけ台構想はどのようにして生まれたのか?などを良平さんの体験を通して描いてみたい。

入学するまでの生い立ち

良平さんは千葉県 千葉郡 津田沼町 谷津(現在の習志野市)で生まれ(1926〔大正15.1.11〕)育った。干潟までは歩いて1キロ足らずだった。高度成長の時代に海岸から4キロも埋め立てられたので,今の谷津干潟は当時の干潟のほんの一部に過ぎない。子供の頃は,潮が引くと潮干狩りをし,潮が満ちてくるとハゼ釣りなどをした。京成電鉄の(当時は京成電車とよんでいた)谷津海岸駅に大きな「谷津遊園」があり,海水プールや演芸場が備わっていた。良平さんの家からは15分ほどの距離だったので毎日のようにプールに通った。演芸場では横山エンタツ・花菱アチャコの漫才コンビが人気だった。

良平さんの家の近く(JR津田沼駅の南側)に軍(鉄道第二連隊,後の東部57部隊)の練兵場があり,子供たちの格好の遊び場となっていた(良平さんも木刀を振り回して遊んだ)。この練兵場は良平さんが津田沼小学校へ通うときの通学路にもなった。満州で使ったという大きな蒸気機関車が置いてあったのが印象に残っているそうだ。その軍隊の兵営内にあって「酒保(しゅほ)」とよんでいた売店では,兵隊さんの間食用にパン・うどん・大福・支那そばなどを売っていた。良平さんの実家はパン屋で,小学校高学年になると販売を手伝った。鉄道第二連隊の酒保が開く夕方4時に合わせて,パンをリヤカーに乗せて運んで行き,夜の8時までそこで売り子をした。パンの製造販売をおこなっていた実家の建物は,明治時代に上野で開かれた博覧会(内国勧業博覧会)の建物を移築したもので,100坪(330㎡)以上もあり,敷地を入れるとかなり広かった。

支那事変(発端は1937年〔昭和12〕7月の盧溝橋事件)が始まった年は,良平さんにとっても節目の年だった。小学校6年生の時に,父親から「成績がいいようだから上の学校に行ってもいいよ」と言われた。家が商売をしていたので「市川商業学校」が候補となったが,担任の先生が「商業」より「工業」を強く勧め,かつ「これからは工業の時代になりますよ」と父親を説得してくれた。こうして千葉市港町にあった千葉県立工業学校(5年制)に入った(1938年,昭和13)。学科は「応用化学」しかなかったので選択の余地はなかった。入学して1ヶ月ほどしたところで,火災で校舎が全焼した。原因は1学年上のクラスでおこなわれていた化学実験の時間に先生がうっかりアルコールランプをひっくり返してしまったためで,責任を感じた先生は危険を顧みず消火にあたり殉職という悲惨な結果になってしまった。その後は,近くの高等小学校を借り,講堂を4つに仕切り,1年と2年の合わせて4クラスが授業を受けた。3年生になったときにようやく新校舎が京成電鉄の検見川駅から徒歩10分ほどのところに完成した。この頃になると戦争の影響で,授業そこのけで道路工事や,農繁期には農家の手伝いなどに駆り出された(真珠湾攻撃は1941年〔昭和16〕12月8日)。卒業も3か月の繰上げで,1942年(昭和17)12月となった。

この時もまた,「成績がいいようだから上の学校に行ってもいいよ」と父親から言われた。しかし冷静に考えると,工業学校では英語の授業などは週に1時間しかなく,上記のように道路工事などに駆り出されることも多かったので,普通の中学校卒(旧制中学は5年制)に比べると学力は劣る。こう考えた良平さんは,推薦制のある盛岡高等工業学校を受験することにした。推薦制のある高等工業学校は近くでは桐生・米沢・浜松・秋田にもあったが,良平さんよりも先に手を挙げた人たちが希望していたので そこは遠慮することにして,遠い盛岡を選んだ。上野から夜行列車で10時間かけて盛岡に行き,面接を受け 無事 冶金科に合格した。千葉工業は3か月繰り上げ卒業となったが,入学は4月なので,その間遊んで暮らせたかというと,そうはいかなかった。就職組は1月から勤め始め,進学組は3月まで補習授業を受けた。

1943年(昭和18)4月9日,盛岡の入学式はみぞれに見舞われ,エライ所に来たものだと少し心細い船出となった。寮で寮生活(8人部屋)を始めた。同室には,やモンゴルから来た人もいた。モンゴルの人は,中国に進出していた軍が目をつけて留学させた人で優秀だった。よく覚えているのは,26歳でモンゴルでは村長をしていたという。盧溝橋事件では,「日本が先に攻めた!」,「いや逆だ!」で一時険悪になったこともあった。

勤労動員とその作業環境 (1944.7~1945.6.12)

2年生になった時に,盛岡高等工業学校は盛岡工業専門学校と改称され,7月からは勤労動員により日立製作所 多賀工場の中の国分工場鋳造課に配属された。良平さんのクラスは3班に分けられ,1班は日光の銅精錬工場,2班は日立の水戸工場,そして良平さんが班長を務めた3班は日立の多賀工場に派遣された。この他,海軍から来ていた3人は海軍工廠(こうしょう)へ行かされた。

作業環境は「安全第一」とはほど遠く,良平さんは2度も大けがをした。一度目は,残業で注意力が散漫になっていた時の事故で,300 kgもある鋳型(高射砲部品の砂型)が落下し,右足の指を2本骨折してしまった。クレーンのワイヤーの掛け方が甘くなっているのに気付かなかったのが原因だった。

回復するまで2か月間実家に帰って休養した(怪我の当初はレントゲンを撮ってもらえず,1週間たってからのレントゲン撮影で骨折していることが判明し実家へ帰った)。この間に父が脳溢血(のういっけつ)で倒れるという不幸にも見舞われた。翌1945年(昭和20)の1月から,アルミ溶解工場(飛行機のレシプロエンジン用鋳物の製造)に移動となったが,ここでは大やけどを負った。反射炉で溶かしたアルミを柄杓(ひしゃく)で受け,手で持って走り,コークス炉の黒鉛坩堝(るつぼ)に入れるのだが,無理に急いだため,不幸にしてこぼれた700 ℃近い溶融アルミの一部が地下足袋(ちかたび)のかかと側の隙間に入った。熱いのでとっさに地下足袋を脱いだ。その時によろけて,素足を床についてしまったのだ。床には,こぼれたアルミが散らばっていた。そこに足をつけば大やけどするのは明らかだ。このときは2週間実家で休養した。

良平さんの話を聞きながら,この「とっておきメモ帳」の第1回目に取材した佐藤公子さんの話を思い出した。公子さんの兄(佐藤正男)は神童と誉れ高い秀才だったが,勤労動員先の製鉄工場で火の粉が目に入り失明,人生が暗転するという悲劇に見舞われた。

空襲の中での受験はかなわず(1945.3.10)

良平さんに本学受験の最初のチャンスが訪れたのは1945年(昭和20)3月10日だった。戦時下の当時は旧制高校が一年繰り上げで卒業となっていたので,工業専門学校の2年生にも受験資格が与えられていた。良平さんは本学受験に備えて,前日に勤労動員先から津田沼の実家に帰っていたが,試験当日(3/10)の未明に歴史に残る東京大空襲(下町大空襲)があり,東京湾越しに火の手が上がっているのが見えた。翌日は電車が不通で,試験会場である大岡山に行けなかった。3日たっても電車が動かないので,受験は諦めることにした(後日談だが,実際には1週間後までは,受験が認められたようだ; このような状況下で,どのような試験が行われたのか興味深いところだが,ここではパスし,今後の課題としよう; コラム1参照)。終戦前後のキャンパスの様子については,コラム2も参照されたい。

勤労動員先(1945.6.10)や盛岡(1945.8.10)の空襲、そして終戦(1945.8.15)

受験は無理と考えて,勤労動員先である日立の多賀工場に戻ることにした。幸い東京に向かう線以外は動いていたので,船橋から東武線で柏に出て,常磐線で目的地にたどり着くことができた。

日立の工場は常磐線沿いに北から高萩・日立・多賀・勝田・水戸にあったが,そのうちの最も大きい日立工場が6月10日にB29の編隊による多数の1トン爆弾で爆撃された。その日は月曜日だったが,前日に高松宮が日立工場を視察された関係で代休となっていて,人的被害は少ないはずだったが,自宅にいた幹部たちが爆撃直後に工場に集まってきたところに第2波の攻撃があり,かなりの人達が亡くなった。

日立の工場群が今後も順繰りに爆撃対象になると予想されたので,若い学生を巻き添えにしてはならないという工場幹部の判断で,急遽6月12日に勤労動員が解除された。予定では,6月末まで工場で働き,7月1日から学校に戻って3か月間の仕上げ教育を受け9月末に卒業することになっていた(半年の繰り上げ卒業)。授業が始まるまでは津田沼の実家で過ごすことにした。兄が戦争から帰って来ていたが,6月末に盛岡に向かうときは,じきに敵が鹿島灘に上陸してくるだろうから,もう家には帰れないだろうという気がして,兄の許しをもらって家にあった日本刀を持って行くことにした。

盛岡は空襲がなく静かだった。しかし,終戦の5日前に、校舎めがけてグラマン戦闘機が飛来し機銃掃射を受け,3名の死傷者が出た。校舎が軍の建物と思われたのだろう。そして終戦を迎えた(1945年〔昭和20〕8月15日)。盛岡工専の卒業式は9月20日に予定されていたが,その直前に米軍が校舎を接収し軍の宿舎としてしまったために,4キロ先の兵舎(歩兵部隊が使っていた所で周りは草ぼうぼうだった)に引越し,9月22日にようやく卒業式を行うことができた。酒を飲んで別れたそうだ(不思議と 酒はあった)。良平さんには刀をどうするかが大問題だったが,借りていた従兄のスキーに刀を挟み,むしろにくるんで うまく津田沼まで持って帰ることができた。

故郷で嘱託教師

終戦の年の9月末に津田沼に戻ったが,すぐには仕事が見つからないので,叔父の家の田畑の手伝い(稲刈り・芋掘り)をしていた。そんな時に,職業安定所に勤めていた叔父の弟が耳寄りな話を持ってきた。「市川工業学校で先生を探している。『甥っ子が家でぶらぶらしているから』と推薦しておいた」というのだ。しかも千葉工業学校時代の恩師(高梨先生)が今は市川工業学校の教頭だという。翌日,面接に行った。そして,もう一人成績のよかった同級生で,武蔵工業専門学校(武蔵工業大学,現東京都市大学の前身)の機械科を出た後,三井財閥の書生をしているのがいるはずだから,彼も連れてこいということで,2人一緒に先生をすることになった。11月30日付で嘱託教師(月給80円)となり,翌年3月に正式に教諭として採用された。良平さんは物理と化学を一緒にした「物象」を担当し,もう一人は「機械」を教えることになった。ところが正式採用になった直後に,「機械」担当だった同級生が「東工大を受験してみよう」と言いだした。高梨先生には怒られたが,受験を認めて貰えた。

受験(定員400名のところ合格は206名)

本学の戦後初の入学試験は,準備の遅れもあってか,4月中旬に行われた。初日の午前中が数学(3時間)で悪戦苦闘した。円錐上の2点の最短距離を求める問題などは歯が立たなかった。昼休みに本館前(現在の70年記念講堂脇)のスロープ(図➊上)に座って昼飯を食べながら,「もう諦めて,午後からは帰ろうかな」というと,友人が励ましてくれ,気を持ち直して午後の科目に臨んだ。物理・化学・英語の感触は悪くなかった。特に,気相と液相の平衡問題は,連結された2つの容器の温度を変化させる問題で一般的には難問だが,じっくり考えて正解することができた。合格発表は4月29日の天長節(1948年に天皇誕生日と改称)だったが,無事合格していた。励ましてくれた友人が涙を飲む結果になり,複雑な心境だった。その友人は大学進学を諦め工業学校の先生を続けたが,既に亡くなっているそうだ。

ずっと後の話になるが,良平さんが教務部長の時の入試で,初日が終わったところで本館の時計台から飛び降りた受験生がいた(今はロックされていて時計台には上れない)。この事件は,良平さんにとっても心の傷になっている。

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図➊ 本館新営第二期工事写真(昭和8年3月~昭和9年8月,工務課)

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図➊ 1949年(昭和24)秋の大岡山キャンパス。本館の迷彩色とスロープの畑に戦争の痕跡を見ることができる。
カメラ: ツァイス製セミイコンタ(蛇腹式のブロニー版)。
写真提供: 須山英三(1953化工3)。
須山さんは,叔父の高柳健次郎(1921年〔大正10〕本学卒,テレビの生みの親),兄哲夫(1943紡織),義兄(堀内平八郎,高柳さんの浜松高工時代の教え子で浜松ホトニクスの創立者)の影響で理系を志した。高柳さんがNHK技研の所長を務めた時期があった関係で,須山さんの家にもドイツ製のカメラがあった。浜松市も米軍の空襲を受けたが,そのカメラは幸いなことに消失を免れた。須山さんは本学入学時にこのカメラを持って上京し,学生カメラマンとしても活躍した。そのお陰で,戦後間もない頃のキャンパスの貴重な写真が残された。須山さんは今もカメラを愛し,自作した高性能のPCでディジタル画像を楽しんでいる。

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図➊ 1965年頃のスロープ。1966年(昭和41)に生協売店で売っていた絵葉書の一枚。

コース配属の時は1人だったが 卒業時には12名

入学定員400名のところ,合格者は206名だった。半数近い欠員とは驚きだが,陸軍・海軍・特攻隊帰りが多く,ほとんど勉強する時間がなかった人たちゆえ,無理もなかったのだろう。

また,後述の表1の注*に示すように,1945年〔昭和20〕春に旧制高校の2年生は卒業して大学に入ってしまい,その年の終戦で修学期間2年間が元の3年間に戻ったため,1946年の入試では高校の卒業生は事実上ゼロだったことも大きかったであろう。

入学して半年は全員一緒に授業を受けた。秋にコースに分かれ,良平さんは金属工学(冶金コースと金属加工コース)のうちの金属加工コースに所属したが,そこには1人しかいなかった。金属工学科の第1期生は1941年(昭和16)4月入学だが,戦時中で旧制高校も修学期間が短縮され,大学の入学も4月だったり10月だったりして(表1),1946年(昭和21)5月入学の良平さんは第7期生だった。

授業は,復学した先輩(10歳年上の富永さん)と二人で受けた。富永さんが復学する経緯はこうだ。富永さん(島根県出身)は苦労人で,東京物理学校(東京理科大学の前身)を出てから一度就職したらしく,その後に東工大に入ったために少し年取っていた。富永さんが入学した時は徴兵延期制度があり,大学生ならば26歳まで兵役は免除されていたが,彼の場合は入学してすぐに26歳になったために,その年の秋から兵役についた。中国に行っていたが幸い生き残って帰国,1946年秋に学生部長で金属の主任でもあった山田良之助 教授のところに相談に行き,復学することになった。

終戦の年に入学した1学年上の学生は,ほとんど授業を受けていなかったので,良平さんたちは彼らと一緒に授業を受けることも多く,いつも富永さんと2人だけの授業だったわけではない。2年生になった時に旅順工科大学からの引き上げ組として4人,1期上だが休学していた人たちが5人,さらに2期上の人が1名加わり,卒業時には12名になっていた。

旅順組の4人は3歳ほど年上で,終戦にともなって旅順工科大学を緊急に繰り上げ卒業となったが,占領軍のソ連兵に技術屋として1年間使われたために帰国が遅れ,その一部の人たちが改めて本学への編入を希望し,おそらく,教授会の決定で2学年に編入となったと思われる。同級生12名の中には,皇太子の侍従を務めた園池さんもいる。園池さんは公家の家系で,学習院を出た後,東工大に入り,卒業後は大崎の明電舎に勤めたが,いつの間にか侍従となっており,皇太子の結婚式では掌典(しょうてん)次長を務め,雅子妃の後ろから烏帽子(えぼし)姿で歩いていたそうだ。

良平さんたちが受けた教育は,米国のトップクラスの工科系大学に比べても引けを取らない革新的なものだった。この教育体系の確立に尽力した学長の名を付けて,「戦後和田教育改革」とよんでいる。プラスに働いたのは,標準コースは設けられたが,専門分野の壁が取り払われ,専門ごとの必修単位という決まりもなく,人文科学・社会科学などの講義の聴講はもちろん,単位の取得もまったく自由で,3年以上在学(旧制大学の制度)して124単位を取得し,卒業論文の審査に合格すれば卒業できるという決まりだった。資史料館が寄贈を受けた明治大正時代の古いノートは,ほとんどが英語で書かれている。しかし,良平さんの時代には日本語が主流になっていたようだ。今でも,自国語で教科書を出せない国ほど高等教育の英語化が進んでいるのは,我が国にとっては皮肉な事実だ。以下,簡単に和田改革を見てみよう。

表1. 太平洋戦争中(1941.12.12~1945.9.2)の旧制大学の修学期間の短縮
(入学時期 と 卒業時期の変更)

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* この年の春,旧制高校は 2年間で繰り上げ卒業,旧制工専等は 2年修了で 大学受験資格
* 1944年5月附属工業専門部を開設,終戦で廃止 (コラム2 参照)
** 4年制の新制大学に移行 (コラム4 & 5 参照)

和田小六 学長の教育改革

和田小六(1890~1952)は29歳の時に,義理の祖父である木戸孝允(きどたかよし、桂 小五郎 = 和田小五郎)の生家である和田家を継ぐため,和田に改姓している。和田さんは東京帝国大学で航空工学の発展に尽くした後,八木秀次学長(八木式アンテナの開発者)の後任として本学の学長に就任した(1944年,昭和19)。

それ以来,病で倒れ62歳の生涯を閉じるまでの8年間,学長として旧来の封建的な講座・学科・大学運営の悪弊を断ち切るべく,教育改革に精力的に取り組んだ。兄の木戸幸一(1888~1977)が内大臣(天皇の側近)を務めていた関係で人脈的にも国の中枢の情報がいち早く入手できたと思われ,終戦を見越して戦後の大学教育の在り方を検討できる立場にあった。周りに 改革の必要性を強く認識し,制度設計や合意形成に奔走してくれる若手教官や米国のMITをよく知る教官がいてシンパ(注1)になってくれたことも改革を遂行する上で力になったに違いない。

和田小六学長のもとで,旧制大学としては最も早く,終戦の翌春から本学において教育制度が刷新されたことは特筆に値する。この改革では,従来の専門領域ごとに細分化した学科という枠を取り外し,「系」制度(表2)を導入することによってセクショナリズムを是正するとともに,一般教育(教養科目)も重視した。科目として科学史・技術史が組み込まれたのも本学が一番早いそうだ。さらに,学生の修学の自由度を上げ,異分野に対する理解を深めさせるためにコース制を導入した。このように新制大学発足(注2)(1949,昭和24年)に向けた準備期を主体的に乗り切った本学の改革は高く評価されている。和田教育改革の詳細と意義については,専門家によって検証されているので,それを参照されたい(注3)。専門家の中には,本学の大学院生時代に和田小六を研究し,博士号を取得した岡田大士(おかだだいし)もいる。岡田さんは現在中央大学(法学部)に勤めているが,本学でも非常勤講師として,総合科目「東工大とは何か(“東工大”学入門)」の1コマを担当してもらい,「東工大をつくった人々─和田小六」という題目で講義してもらっている。

表2. 1947年5月当時の系と仮設講座の対応関係

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研究科特別研究生 (給費から貸費へ)

良平さんが卒業した1949年(昭和24)には,単科大学であった本学には,現在のような大学院がなく,研究科特別研究生になった(前期2年,後期3年)。後期の時に和田小六学長が胃がんで亡くなった(1952,昭和27)。

良平さんの頃は学科がなかったはずなので,履歴書に「金属工学コース」卒業と書いたら,事務に「金属工学科」と直された。変だと思って聞いてみると,「原簿では“金属工学科”」となっているという返事だった。学内的には「コース」,対文部省的には「学科」というふうに使い分けざるを得ないという苦しい事情があったのだ。というのは,法令に従えば大学の設置・運営は,学部・学科・講座が基本と決められており,それらが定員や予算配分の基礎となるゆえ,学科を完全に撤廃しては大学の法的な存在基盤(人と金をつぎ込み学生を募集する法的根拠)がなくなってしまうからだ。皮肉にも理工系ブームの到来によって,この内向きと外向きの顔の使い分けが破綻する事態については後述する。

特別研究生の制度ができたのは,1943年(昭和18)10月からで,同年9月卒業者(戦時中で半年繰り上げ卒業)から適用された。優秀な研究者を確保し大学に残すための施策で給費だった。助手の給料に家族手当(約10%プラス)が上乗せされたので,かなりの優遇措置だった。ところが,運の悪いことに,良平さんたちの代(1949年4月)から給費でなく貸費となった。この政策転換は,GHQ経済顧問J.ドッジが立案・勧告したDodge Line(日本経済の自立と安定のために実施された財政金融引き締め政策; 1949年3月)の一環だった。簡単には納得できない良平さんたちは,文部省の科学局長だった茅誠司(本学の前身,東京高等工業〔いわゆる蔵前高工〕出身で東大総長を務めた; 1964年に文化勲章)に談判に行った。思いのほか簡単に会って貰えたが,茅さんのレベルでは もはやどうしようもないと諭(さと)され,国立の研究機関や大学に残れば返還免除となるので頑張るようにと励まされた。茅さんに会いに行くことにしたのは,茅さんが金属物理学者で,当時 東京帝大と本学を兼任していた関係で,良平さんたちが学部3年生の時に,茅さんの講義を受けていたことも1つのきっかけだった。

あてにしていた助手のポストが凍結,あおりで結婚も延期

良平さんは 経済的に楽ではなかったが,特別研究生として5年間 研究に没頭し成果を挙げることができた。恩師である岡本正三ら 教授陣にも認められ,特別研究生の後期修了の暁には助手にしてもらえることになっていた(1954年〔昭和29〕)。鉄鋼材料講座の2名の助手の内の1人が転出し空席になっていたので,そこに良平さんが入る予定だった。ところが,隣の講座に3名の助手が居るから金属工学科全体でバランスをとる必要があるので,3名のうちの1人が転出するまでは良平さんの採用はお預けということにされてしまった。こうなると,当分は無職なので結婚も出来ない。表2の大くくりの「系」と「仮設講座」の組み合わせによって融通を効かせた運営をし,旧来のセクト主義を打破するという理念は,分野ごとの教員数というレベルになると「学科」という より小さな便宜上の単位に勝てないようだ。

隣の講座の3名の助手の内,最年長の助手が半年後に転出したので,良平さんは1954年(昭和29)10月から助手として採用された。待ってもらっていた女性とは12月に結婚した。2年後に助教授,さらにその8年後に教授になった。良平さんは,耐熱鋼や耐熱合金の高温強度を高める研究で優れた成果を挙げた。このような良平さんの教育研究活動(注4)も紹介したいところだが,ここでは組織運営面に的を絞って話を進めることにしよう。

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田中良平(1959,東京工業大学教官総覧)

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良平さん夫妻(1991年11月)

学科制の復活

<大荒れの教授会>

良平さんが初めて教授会(注5)に出たのは助教授になった1956年(昭和31)11月だが,ただならぬ雰囲気に驚いた。和田学長が病に倒れた後を継いだ内田俊一学長が「俺は辞める!」と息巻いていたからだ。内田さんといえば和田改革を推し進めた7人の侍(東工大刷新委員会のメンバー)(注6)の一人だったが,改革が内包していた制度上の問題が表面化し,抜き差しならない状況に追い込まれていた。

学内的には上記のように「学科」を廃止し,「系」や「コース」に基づく運営をしていたが,時代の要請を受けて新“学科”(生産機械工学科など)を作ろうとしても,文部省が「学科のないところに学科は作れない」と取り合ってもくれなかったのだ。大学設置基準では教育研究上の基本組織として学部や学科が規定されている。外向きには学科があるように見せかけ,内向きには学科がないという2枚舌は“学科”増設と入学定員の大幅増の時代を迎えると,もう使い分けることは困難になりつつあった。この点が教授会で問題になり,内田さんは劣勢に立たされていたのだ。他にも理由はあったと思われるが,1956年(昭和31)に学長(任期4年)に再任されていた内田さんだったが,学長選考規則の改定により,通算6年目の1958年(昭和33)に任期満了となった。

<規模の拡大と細分化>

次の山内俊吉学長の時に(1960,昭和35),理工学部に14学科(数学科・物理学科・化学科・金属工学科・繊維工学科・無機材料工学科・化学工学科・工業化学科・機械工学科・制御工学科・経営工学科・電気工学科・電子工学科・建築学科)が設置され,学科制が正式に復活することになった。工業の発展に伴う理工系ブームへの対処を迫られた結果だ。ブームが去って21世紀を迎えたいま,焦眉の急とされる現在の教育改革には,学生に専門家としての魅力を最大限に付与する仕組みに加え,少子化対策とグローバル化の視点が欠かせないようだ。研究大学としての生き残り作戦といってもいいかも知れない。

<幻と消えた初期の3学部制とその余波>

話は少し戻るが,1950年(昭和25)3月に,学長の和田さんは新規採用予定の教官(分析化学者の岩崎岩次)と面談していた。岩崎さんは恐る恐るこう聞いた:「私のような自然科学の研究だけしか知らない者でも この大学に 必要でしょうか」。「本学では産業のわかる人は多いが,産業発展の基礎は科学の研究にある。そこのところが本学では不足しており困っている。君は産業など勉強しなくてよい。本学でも米国のMITのSchool of Science的なものを作りたいのだ」と激励され,岩崎さんは,心の中で,理学部を作るために精進することを和田学長に約束した(注7)。

その第一歩が実現したのが1955年(昭和30)で,工学部を理工学部(注8)に改称し,理学士及び理学博士が出せるようになった。しかし学内的な反対もあり,次の一歩を踏み出す(理学部の設置)までには12年もかかった。この間に大学の将来構想も練られ,最終的に理工学部を理学部と工学部に分離するだけではなく第3の学部として社会工学部(注9)を作る案が教授会で承認され,文部省に概算要求することになったが,社会工学部については文部省が難色を示し,結果的に理・工の分離にとどまった(1967年,昭和42)。

第3の学部として社会工学部を作る案は その後も くすぶり続けたが 実現せず,大学院重点化の流れに乗って1996年にようやく大学院社会理工学研究科が実現した。その代わりに,第3の学部として誕生したのが生命理工学部で,1990年のことだ。遺伝子工学が普及し始めた頃で,学術的のみならず社会的要請も強かった。そして,翌年から7類による入試が始まった。

バイオ系の学部ができる素地は本学にもあった。そのことは130年史で紹介されているが,最初に卒業研究でバイオ系のテーマに取組んだ学生が誰だったかにも興味があったので調べてみた。幸い本人も存命だったのでインタビューすることができた(コラム1参照)。

本学は国立大学(2004年以降は国立大学法人)ゆえ,文部省(2001年以降は文部科学省)を説得しない限り改革は実現できない。比較的最近の例では,理工学研究科を3つの研究科に分離する案が学内的にまとまったが文部省との折衝の段階で消えてしまった。理工学研究科を理学研究科と工学研究科に分け,かつ材料科学分野を新研究科(物質理工学研究科)として独立させようとした。しかし,この案は肝心の文部省の後押しが得られず,学内的な組織再編,すなわち学部のない物質科学専攻の設置(1998)のみにとどまったために,物質科学専攻(理学系)及び物質科学専攻(工学系)と表記しないと実態が分りにくい存在となり,管理運営上は2重の負担となっている。見かけ上の独立は代償を伴うようだ。

学長の在任期間で見る学内の変化(機構変動,表3)

気候変動は地層や氷床に刻まれているが,学内の大きな変革期あるいは争乱期は学長の在任期間に反映されている: (1)2期目の内田さん【系vs学科制をめぐる諸問題】,(2)實吉さん【校務処理と新キャンパス】,(3)斯波さん【寮問題に端を発する大学紛争】などだ。内田さんについては前述したので,ここでは實吉さんと斯波さんの時代について見てみよう。

表3. 学長の在任期間(変革期・紛争期)

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* 昭和 31年 8月に再任,しかし昭和 33年 6月 14日の規則改正により,“任期 4年 かつ続いての再任は不可”となった。この規程施行時に在職する学長(内田さん)については,通算 6年で任期満了とされた(百年史,通史 p.857)。法人化以降は,学長の任期は原則 4年。

<理工分離 & 将来構想として浮上した長津田キャンパスの取得>

昭和30年代の学科増設によって,大岡山キャンパスは狭隘化しつつあった。そして,1967年(昭和42)の理工学部の分離に際し,文部省から長期計画の提出を求められた。この時の学長が實吉さんで,それまで精密工学研究所で超音波の研究に没頭していた。学究肌で,温厚な人柄だったことから,本人が嫌がるのを無理やり学長にされてしまった。

もともと行政的なことは肌に合わない上に,教官の研究時間を獲っては申し訳ないと思ったのだろうか,事務局を頼りに学長室にこもった。教官からは,事務局の言いなりになっているように見えることもあり,孤立してしまった。

百年史や読売新聞によれば,両学部長と評議員が辞表を提出する一幕もあったようだ。何とか体制を立て直し,概算要求の締め切りとの闘いの中,新キャンパスの取得を柱とする将来計画の策定は 総論賛成 各論反対で1968年3月末までの期限に間に合わず,4月5日の評議会でようやく4研究所を長津田の新キャンパスに移すことが決まった。

検討された4案の中には,最終的には採用されなかったが,理学部を移す案も含まれており,興味深い(百年史,通・後p1073)。もちろん4研究所は移転に際し条件を付けた: 研究部門の強化と大学院教育を出来るようにすることだ。後者が総合理工学研究科(総理工)の源流となった。良平さんの話では,総理工の立役者として中村正久(金属1943)・岸源也(電気1951)・市川惇信(化工1953)・明畠高司(化工1953)などの名前は忘れてならないそうだ。実吉学長は1968年8月5日に依願辞職。

<寮問題から大学紛争へ(注10):
正門がバリケードで封鎖され,ついには機動隊が導入された>

緑ヶ丘地区に学内寮の1つである向岳寮があった(注11)(図➌)。1930年に建てられたもので,古くて火事を出したこともあり,建て替えが検討されていた。建替えに際しては,管理規則を制定すべしということで,文部省が見本を作り各大学に示した。それまで無料だった光熱水道料の寮生負担などが明記されており,それまで学生自治に任せていたところに国家権力が介入することは許しがたいとの抗議の声があがった。ちょうどフランスのストラスブール大学に端を発した学生運動(1966)の波が世界的に広まりつつあった頃で,本学でも桜の木の脇の壁には「花より団交!」と大書されていた。

1968年秋には寮問題から大学紛争へと火勢は増しつつあった。斯波忠夫学長のもとで教務部長を務めていた本庄五郎教授のもとに闘争派学生が押しかけてきて,「今から学生集会をやるから第3新館(現在のW8)へ来い!」,「行くもんか!」という問答の末,本庄さんを椅子ごと会場に運ぶという一幕もあったそうだ。「学生とは運命共同体ゆえ,学生の言い分も理解してやる必要がある」という立場の教官もおり,学内が揺れ動いていた時代だった。

そして年が明けた1969年1月23日,斯波学長と評議会メンバーが学生との団交に臨んだがが明かず,29日には夜遅くまで第2回目の団交が開かれたが何の進展もなかった。

次の日の朝に「団交は意味がない」と宣言して学長は退出し,決裂となって,学生ストライキは事実上この日に始まった。この両日とも良平さんは一人のヒラ教授として参加し,事の推移を見守っていた。

2月11日(建国記念の日)は休日だったが,気になって登校してみると,講義室から持ち出された机が正門に積み上げられロックアウトされていた(図➍)。助手までは入れてもらえるが教官は入構できない状態になった。このバリケード封鎖に関しては学内の学生運動団体間(注12)でも考え方の違いが鮮明になり,「ストライキ続行,しかしバリケードは解除」が優勢になりつつあった。

そんな時に開かれた(1969年)5月8日の学生大会では運動方針の対立から負傷者が出るに至った。斯波学長は同月の27日に依願辞職。

ロックアウトが続いた7月までは,教授会は外を転々として,公民館・蔵前工業会館・虎ノ門の発明会館・平河町の都市会館などを借りて開いたが,そこへ学生が何人か押しかけてきて妨害したそうだ。入学試験は 代ゼミなど よその会場を借りて実施し,新入生には寺小屋と称して各教官の自宅や喫茶店で話をした。新入生向けの正式な講義は田町の附属工業高校が夏休みになり教室が空くのを待って,7月7日から始まったが,ここにも闘争派学生が押しかけて,もみあいになり,ろっ骨を折った教官もでた。

学生運動が激しくなるにつれ,万一の事態に備えて,警備を担当する設営委員会(後の本部委員会)が設置された(初代委員長: 藤田重文〔化工〕)。「設営」の元々の意味は,ニュースで報じられていた東大と同じように本学でも団交をやるようになるかもしれないと見越して,「団交の場をセット(設営)する」だったが,実際には 設営委員会は警備を含めた学内秩序の維持全般を担当した。良平さんは設営委員会の班長を命じられ,田町キャンパスの警備(朝・昼・晩・夜中の見回り)や大岡山に警察機動隊を導入して占拠学生を排除する準備などで自宅に帰れない日が続いた。

そして,1969年7月10日に機動隊が導入され,封鎖が解除された。周辺の商店などには,前夜のうちに警察が予告して回ったとみえて,当日早朝には大きな混乱はなかったが,その情報が学生側にも伝わっていて,学内で占拠していた学生はごく少数であった。学生に再占拠されないように,大岡山キャンパスの周りは 工事現場と同じように 鉄製パネルで完全に囲み,正門等の入り口では,設営委員会のメンバーが門番として立ち,入構のチェックをした。そんな時に,闘争派学生のシンパだった学生や助手の何人かからは,「お前は人間のクズだ!」とののしられた。そんな彼らがいつの間にか本学の教授になり名誉教授にまでなったのを知った時は,言葉を失い,今まで味わったことのない感情が込み上げてくるのを抑えきれなかったそうだ。

機動隊を導入して一段落したところで,設営委員会の委員長らが交代し,良平さんは副委員長になった。そして,大学紛争のきっかけとなった向岳寮の取壊しに立ち会うことになった。1970年6月12日午前5時,裁判所執行吏の立会いのもと,メガホンで最後通告をした後に,泊まり込んでいた寮生と他大学の学生を退去させた上で,ブルドーザーで寮を壊した。1時間余りで寮は姿を消し,正午過ぎにはすべての作業が完了した。

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図➌ 緑ヶ丘地区と北地区にあった向岳寮と如月寮(出典: 1957〔昭和32〕卒業アルバム)

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図➍ バリケード封鎖された正門

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図➍ 学生大会の開催を求めて集まった学生(出典: 東工大クロニクルNo. 1 & 7, 1969)

大学紛争を契機にした改革

学園紛争を「不満と失望が生んだ“熱病”」と総括するマスコミ(注13)もあるが,本学で政治学を教えていた永井陽之助は著書「柔構造社会と暴力」(中公叢書,1971)のあとがきで“あらたな世代の覚醒”に期待したいと述べている。池上彰は2年前の本学での講義で次のように分析している:「いまになってみると,なぜあんなことが起きたのか,理由がつかめません。1968年(昭和43年)前後に世界で同時的に発生した学生の反乱。その分析は,現代史のひとつの課題でもあるのです」。

本学での新しい試みや変革には次のようなものがある:

(1)東工大クロニクルの刊行〔1969年4月〕
(2)類別入試の実施〔1970年3月〕
(3)新入生セミナー〔バス旅行を含む1泊ゼミ〕の実施
(4)学内寮の廃止と寮の新しい管理体制
(5)学友会の解散
(6)将来構想の策定

寮の問題を発端とする大学紛争から半世紀近くを経て,グローバル時代に活躍する人材育成の手段として,寝食を共にする“道場”や“学内寮”での共同生活が再び注目を浴びつつあるのは興味深い。ブルドーザーで消えた向岳寮がよみがえる日が来るのだろうか。

終わりに

良平さんたちの世代は,次から次と戦後の制度の変わり目に遭遇し苦労した。しかし,幸いにも戦争には行かずにすみ,卒業後は本学に残って教鞭を執った人たちは,強い思いで日本の科学技術の進歩とそれを支える大学の充実に尽くした。まさしく日本復興の担い手となった世代といえよう(コラム1, 4, 6)。

主人公である良平さんのその後をお伝えして結びとする。

良平さんは本学を停年退職した後に,横浜国立大学に5年間勤めた(1986~1991)。あとは隠居生活と思い,自宅を2世帯住宅に建て替えるために一旦取壊し仮住まいしていた時に,次の職が舞い込んだ。1988~1990年にかけて,良平さんが概算要求段階から係っていた「超高温材料研究センター」に常勤技術顧問(1991~2007)として勤務することになり,仮住まいから新居に戻らず,新しい勤務地のある宇部に引っ越した。2007年以降は非常勤顧問になり横浜に戻ったが,89歳になった今も月に一度は飛行機で宇部に出張している。

(注1)シンパ: Sympathizerの略で同調者・共鳴者。注6の7名と数学の池原止戈夫(MITで修士号を取り,講師まで務めた)。

(注2)GHQは 当初 官立大学は旧帝大のみにし,他は地方に移譲する案を真剣に検討していた。この案では,本学は東京商科大学(現一橋大学)などと合併させられ,総合大学として東京都に移譲されることになっていた。学生を巻き込んだ強い反対運動もあって,最終的にはこの案は流れた。本学ではこの“GHQ事件”は,当時の学生が思い出として寄稿(コラム3)しているのみで ほとんど語り継がれていないが,一橋大学には史料が残っている:白石武夫,「母校“第三の危機”を調査して思う」,如水会報2012年4月号,p4–5(情報提供:如水会の鈴木徹郎及び蔵前工業会埼玉県支部の平原照晏,石井正紀,小田邦幸)。

(注3)戦後の和田改革に関する文献:
和田小六,「大学における工業教育」,科学22, 165–170, 1952。
杉谷祐美子(早大,現青学大),「和田小六-大学教育論の再検討」,大学教育学会誌20, 114–118, 1998。

杉谷祐美子,「戦後東京工業大学改革過程における教養教育の成立-その背景と条件」,大学教育学会誌21, 64–71, 1999。

岡田大士(東工大,現中央大),「東京工業大学における第二次大戦直後の大学改革-『東京工業大学刷新要綱』成立過程とその評価」,科学史研究40, 1–11, 2001。

鳥居朋子(名大,現立命館大),「戦後教育改革期における東京工業大学のアドミニストレーション—「系」を基礎とする自律的な組織運営に着目して」,名古屋高等教育研究 第3号,137–158, 2003。

岡田大士,「東京工業大学における『戦後大学改革』—その過程と大学基準協会発足における役割」,大学史研究 第20号,46–60, 2004。

岡田大士,「大学改革からみた科学技術人材養成の歴史とその比較―東京工業大学の戦後改革と1930年代のマサチューセッツ工科大学における改革を通して」,東京大学史紀要 第23号,85–98, 2005。

岡田大士,「航研機と新制大学―和田小六が残したもの」,材料技術(材料技術研究協会誌)24, 193–196, 2006。

(注4)田中良平,「耐熱鋼から超高温材料へ」,ISIJ情報ネットワーク(鉄と鋼79),N282–N289, 1993。「耐熱合金のおはなし」,日本規格協会,1990。

(注5)当時は教授総会といって,教授の他に助教授・専任講師も出席していた。今では当たり前だが,当時は革新的だった。

(注6)山田良之助(京都帝大,1921機械),内田俊一(東京帝大,1920応化,MITに留学),金丸競(東京帝大,1924応化),佐々木重雄(東京帝大,1922造兵),矢木栄(東京帝大,1928応化,MITに留学),稲村耕雄(本学,1933染料),崎川範行(東京帝大,1932応化),早川康弌(東京帝大,1932物理)。

(注7)岩崎岩次,「元学長 和田小六先生」,東工大史記(蔵前工業会),p47,1995。

(注8)この時も,建前の上では理工学部のもとに10学科(数学・物理学・化学・化学工学・機械工学・電気工学・金属工学・繊維工学・建築学・経営工学)が置かれていたが,学内的には「系」に基づく運営がなされていた。

(注9)社会工学科は1966年に設置された。多数の関連資料(鈴木光男名誉教授 寄贈)が資史料館に保存されているので,社会工学科の誕生を辿ることができる。

(注10)日本評論社編集部(編),「全国学園闘争の記録Ⅲ」(日本の大学革命3),日本評論社,1969。永井陽之助,「ゲバルトの論理」,中央公論84 (5), 54–77.

(注11)当時は以下の5つの寮があった: 向岳寮(図➌➌‡,緑ヶ丘地区,1924年築の木造を譲ってもらい,1930年に学内に移築,1970年廃止),如月寮(図➌,北地区ひょうたん池の先,1978年廃止),つばめ寮(グランド脇,旧武道場,1979年廃止),高津寮(川崎市高津区,1940年築,1975年廃止),恩田寮(後の松風学舎,横浜市青葉区松風台)。当時の寮を1947年生まれの同窓生は次のように記述している「入学手続きを終えて,当時川崎の高津にあった大学の寮に入ることになった。この寮はこの世で見た最も古く汚い木造の建物であって,ピサの斜塔のように傾いており,今にも倒れそうな物件であった。倒れない様に,柱で支えてあった。部屋には,戦前の学生等が残した落書きがあったが,こういう遺物には又それなりの親近感が持てた」。資史料館では寮誌等の収集にも努めていますので,余部があればご寄贈ください。

(注12)学友会執行委員会,五寮委員会,全学闘争委員会(全闘委),全学改革推進会議(革推会),東工大を真に考える会(工真会)。

(注13)2014年4月12日の産経新聞6面。

向岳寮の配置図

図➌‡  緑ヶ丘地区にあった向岳寮の配置図

コラム1 バイオの種まきをした学生

入学の年(1945年,昭和20)の8月に終戦を迎えた学生(中村泰治)の話も紹介しておこう。

高校の時から勤労動員があり,中村さんの場合は亀有の日立製作所で働いた。当時は米軍の爆撃(焼夷弾)による火災の延焼を防ぐために,一定区域の木造建築の取壊し(建物疎開*)が行われており,中村さんの家も強制的に壊されたので,渋谷の笹塚から新宿のおばさんの家に移り住んだ。

本学受験に関しては試験を受けた記憶がないので,内申書と面接だけだったのではないかという。爆撃機から見えにくくするために本館はタールで黒く塗られていた。本館前広場はイモ畑やカボチャ畑となっていたが,そこには焼夷弾も何本か刺さっていた**。

ある雨の日に,大岡山駅から校舎に向かう途中,たまたま和田学長の後ろを歩いたことがあったが,光沢のある長靴を履いて ひたひたと歩く和田さんからはオーラが出ていたそうだ。夏休みが近づいた7月からは勤労動員で長野の千曲川のほとりで麦刈りを手伝った。農村では男手が不足していたので,とても大事にされた。戦争が終わると,学生は希望と元気を取り戻し,部活動も盛んになった。当時の部室は本館のいい場所(学長室のすぐ近くや時計台の中など)にあったそうだ。

コラム1fig1

本館前のパノラマ写真(1950 年〔S25〕)。撮影: 鄭(てい) 江明(こうめい) (S25有機合成化学)。フィルムの入手が困難な中,苦労してこの写真を残したエピソードが蔵前ジャーナルNo. 995, p.136に紹介されている。本館前の桜は,この年に鄭さんたち卒業生有志によって植えられた。

中村さんは,卒業研究では有機化学の星野敏雄(1899~1979)研究室に所属した。向山光昭(文化勲章,1997年)も同期で同じ研究室だった。中村さんは生物に興味があったので,星野研の主流ではないが,生物寄りのテーマにしたいと申し出た。星野さんは快諾し,ヱビスビールで有名な(サッポロビール㈱の)醸造技術研究所に派遣してくれた。星野さんはビール関連製品の化学分析の相談にのっていた関係で,その研究所には頼みやすかった。中村さんは土壌中の放線菌を培養し,抗生物質を探す仕事をした。この新分野の仕事には星野さんも興味を示し,中村さんは卒業後も副手として星野研に残り,恵比寿に通うことになった。工場の中に恵比寿神社があり,毎月20日に えびす講が行われ,その日は午後から夕方にかけてビールが飲み放題だったそうだ。

次第に本学でも生物化学教室の必要性が認識されるようになり,その第1段階として,東大から田宮博(植物学 教授)を非常勤講師として招いて「生物化学」の講義が始まった。そして,1948年(昭和23)には,星野さんらの尽力により化学系に正式に「生物化学教室」が設置され,高宮篤(田宮博の弟子)が着任し,翌年 中村さんは助手になった(百年史・部局史p65)。これが本学におけるバイオの源流であり,中村さんの貢献は大きい。中村さんは その後 助教授になったが,1963年(昭和38)に昭和大学薬学部生化学教室に教授として転出した(最寄駅は大岡山から2駅目の旗の台で本学には近い)。取材でお会いしたとき,とても米寿を迎えた人とは思えないほどお元気だったので,「何かコツでも?」と尋ねたところ,「17歳の時からヨガ道場に通っているが,それが良かったのかねぇ」とのことだった。

* 建物疎開の例は本学でもあった。本館とグランドの間にあった木造2階建て(金属工学科と燃料工学科が入っていた)が強制的に壊された。

** 平井聖(1952建築,名誉教授)も「本館の前庭」と題するエッセイで同様の記述を残している:本学の建築系同窓会「冬夏会」の会員便り(2013)。

コラム2 戦争の孤児—専門部顚末記

専門部化学工業科第1期生の手記
(1947専化,T・O氏)

奥野健男(1926〜1997)と思われる

出典: 東京工業大学70年記念誌(創立70年全学祭委員会編,1951年5月発行);百年史・通史pp. 633–636.

1944年5月,全学生勤労動員の為,ひっそりと静まりかえった葉桜の工大で,附属工業専門部第1回の入学式が行われた。徴兵徴用を逃れようとする1万人にも達する必死の受験生の中から選ばれた300人の新入生は前途の希望と戦局の不安をたたえて講堂に集まった。八木学長は「大学に昇格して以来,予科がなく寂しかったが,今度の専門部新設はその念願がかなえられたもので,蔵前の復活とも言えよう」といった意味のことを述べられた。このようにして戦争の孤児,八木学政の落し子,専門部は誕生したのである。

急設のためかも夏まで決まらず,その代わり葉書大位の途方もなく大きい名札を国民服の胸に縫い付けるように命令された。授業も道義・人文・修練とかいう得体のしれない学科があり,いわば典型的な戦時学徒としての道を歩んだのである。

しかし当時の社会一般の狂的な軍国主義を思えば,私達は恵まれ過ぎる程であった。工大の長い自由の伝統と実力は,暖かい防風林を作って戦争や軍部の圧迫から私達を守ってくれた。山田学生主事,蓬沢専門部主事を始めとする学生部の方々は学生に対して実に親切丁寧であり,(このことは中学以来学生部とは恐ろしい所という先入見を持った私達には実に嬉しかった)配属将校もだらしない位威張らず,教練も1週1回,それものんびりしたものであり,教練と体練を除いては整列することもなく,ただ私達は1週20時間もある数学や物理の超スピードの講義を勉強すればよかったのである。分析実験なども戦時中にも拘らず今と違って1人1つの実験台,豊富過ぎる位の器具や薬品を使って実験出来た。その頃,スロープに横穴の防空壕がつくられ,そのアルバイトに一高の生徒などが汗水たらして働いているのを窓越しに涼しく見ながら,私達は白い実験義を着て試験管を振っていたのを覚えている。

スロープといえば未だその頃は一面の緑の芝生で,私達は何時間もそこに寝そべって駄弁ったものである。徴用逃れの為か,その頃の研究室にはお嬢さん達が多数居て,昼休みの芝生は色彩りどりで満艦色の様に美しく,スピーカーからベートーヴェンのシンホニーなど流れ,戦時中らしからぬ平和な風景だった。私達は芝生に寝そべることに,学生生活の自由を感じていたようだった。

やがて秋になりB29が澄み亘った空高く飛行機雲を引きながら飛んでいくのを,私達は芝生に寝そべってのんびり眺めていた。学生ホールでは稀には音楽会も開かれ,講堂に日響が来たり,秘密でアメリカの天然色映画が映されたり,正門前のアイドリスで昆布茶にトーストで何時間も粘ったり,農村アルバイトでロマンスを咲かせたり,実際私達は戦争中唯一の学生として学園生活を享受したのである。

勿論その頃の研究室は,戦時研究の為灯火管制下夜を徹して実験が行われていた。そして私達の捌け口のない情熱,秋の多摩川までの駅伝競走に爆発し仮装行列まがいの応援をしたり,その夜当時工大の一部を占領していた海軍省¶の立札を焼いたり,便所に「工大専用便所,軍人入るべからず」等と落書きして問題を起したりした。

しかしこのような自由な学生生活は台風の中心の穏やかさに似ていた。まだ純真な子供であった私たちの多くは,戦局の悪化に日本の前途を憂慮しながら,何をしてよいかわからず,ただその日その日を送っていたものである。

そして入営は猶予されていたが私たちの前には絶えず死の壁があった。3月10日の空襲の時は罹災の級友を乏しい持ち物を分け合って救済し,蔵前ゆかりの浅草区役所へ全員自発的に戦災者救助のアルバイトに出かけたりしていた私達も,次第次第にみじめな戦争犠牲者になっていった。八木学長が技術院総裁になり,私達の敬愛していた蓬沢主事が悲壮な訓辞を残して出征され,白亜の本館が醜く迷彩を施される頃から私達の生活は急激に悪化してきた。

第2回生が4月に入学したが授業はいつ始まるかわからず,私達は空襲におびえながら防空服装で登学し,豆腹を抱え,雑炊食堂に並び,教練も竹槍で何処を刺せばもっとも効果的であるかなど実にリアルに人殺しの方法を教え始め,級の大半は空襲罹災者になってきた。5月末の空襲に工大は無数の焼夷弾をあび,風洞や航空実験室が日本の運命を象徴するが如く焼けたが,本館は不沈艦の様に無事であった。交通機関が滞り学生は歩いて登学し,その頃多分数学のI教授と思うが学生が一人もいない教室でそれでも平然と講義していたのを覚えている。やがて皆工場や研究所に動員され,張り切って行ったが,余りにも惨めな生産の現場を見せつけられ,私達はどうにもならない焦慮の念にかられたものである。

やがて8月15日,私達は死への行進から解放されたがその後の幾月かはただ呆然として日を送るのみであった。デマは乱れ飛び一時は工大廃止説などもまことしやかに伝えられた。10月頃授業は漸く再開されたが目的意識を失った学生は,まるで阿呆の様であった。いや戦争の為,つくられた専門部自体が目的を喪失してしまったのである。学部の学生が続々動員先から帰って来てたちまち教室は手狭になり,専門部は付近のボロ中学に居候の身になった。完全な継子扱いである。しかし学生はただ唯々諾々とそのとおり動いていった。却って教授方が同情されてその本館復帰が1,2か月後になされた。しかし その様な虚脱状態は専門部だけでなく大学全体であり,実験室は水もガスも出ず完全に麻痺していた数ヶ月であった。学生の一部のものは闇屋やサッカリンメーカーやブローカーになった。ただ奇妙に政治論争天皇制問題だけ盛んで講堂でしばしば各政党討論会が行われた。共産党 宮本憲治,社会党 鈴木茂三郎,進歩党 大田正孝,国民党 児玉誉志夫 その他 群小政党の代表が入れ替わり立ち代わり演説をした。そして与論調査の結果は,もっとも右翼的な児玉誉志夫の国民党が全学的に圧倒的な人気があった。終戦直後の学生は 一部 回れ右式の者を除いて大部分 長い戦争の結果,完全に政治的盲目にされていて社会党すら白眼視していたのである。

しかし終戦の年の暮れ頃から急速に学生は新しい希望に目覚めてきた。そして苦しい生活の中に各々の道を求め始めたが,その時私たちの夢を打ち砕くような事柄が起きた。文部省が一片の通牒をもって専門部廃止を決定したのである。これを知った専門部学生は憤激し,直ちに学生大会を開いた。同じ運命にある九大専門部の猛者達がはるばる上京し,私たちを激励し,共闘を申し込んだ。私たちは廃止絶対反対を決議し代表は文部省に座り込み,当時の安部文相,田中高専局長に陳情抗議した。廃止の理由は戦争中に出来た学校だから,戦争の終わった今は経費節約の上からも当然廃校にするというのであるが,それは余りにも学生の立場を無視した処置であった。しかし私達必死の努力に拘らず廃止は確定され,21年度(1946)から募集停止。ここに先輩も後輩もいない2回だけの奇妙な存在が出来上がったのである。次いで私達は予科昇格の運動を起こした。戦時中の学業の不足,専門部の科目の予科的な性格,戦後工業界の混乱等の様々の理由からもっと修業年限を延ばそうとする,私達の自衛の叫びであったが,これも成果はなかった。すべての運動は失敗に帰したが,実にこれが工大のその後の学生運動のきっかけとなった意義は大きい。

ともあれ廃止と決まった私達の間には,何となく刹那的なニヒルな感情が流れ,残り少ない学生生活を享楽しようとする者が多くなった。しかしそれと共に新生活建設の意欲も旺盛になっていったのである。21年4月には校友会が組織され,文化活動,スポーツ等 学部にさきがけて盛んになってきた。野球部はほとんど専門部生であった。文芸部から「泉」第1号も発行された。ダンスも盛んに行われた。喫茶「角笛」が本館の一隅に開店され その上得意も専門部生であった。漸く学生生活に自由と情熱が蘇って来たのである。そのクライマックスは何といっても,その秋11月に行われた全学祭であろう。実に十有余の劇が2日間に亘り講堂で上演されたのである。

……審査員は服部,安藤,稲村先生始め10人位,深夜2時まで立錐の余地もない大観衆で賑わうという空前絶後の盛況であった。冷静に見れば底にデカダン的な感傷があったかも知れないし,また戦争のためやむを得ず工科に来たという異端者が多かったせいかも知れない。

しかし長い戦争時代に圧迫に圧迫をされとおしてきた若人達の生命の歓喜の爆発であった。すべてに濃いヒューマニズムが漂い,その意味でこれは工大の文芸復興と呼んでよいであろう。

これを頂点として専門部生は次第に冷たい現実に直面していった。半数の者は大学受験の勉強に沈潜し,他の者は就職に奔走し,そして異端者は文科へ転出して行った。ちょうど2・1ストの前日,予算会議を行っている私達の部屋に,少壮の助教授十人位が乗り込んで来られ,そのゼネストの世界的意義を説かれ,協力を要請された時,こちらはただ拝聴するだけであった。その当時専門部生には未だ社会に対し目を向ける余裕はなかった。

やがて3月第1回生は卒業し,第3学年のみになった。「泉」は第3号4号と巻を重ね,劇研はなお活発に「山の喜劇」,「プレイ・ボーイ」,「戯れに恋はすまじ」と次々に上演し,音楽会も原智恵子をよんだり,野球部は高専リーグで優勝し万丈の気を吐いたが,1学年だけの寂しさは蔽い切れず,昭和23年3月第2回生卒業と共に専門部は自然に消滅した。

思えば薄幸の戦争の孤児であったが,老成した嫌いのあった工大に,善いにせよ悪いにせよ,稚気と情熱とそして幅のある学生生活の種子を播いた影響は決して少なくない。学部へ進んだ百名以上の学生も,直ちに社会の荒波に乗り出した者達も,工大以外の母校のない卒業生として一番深く工大を愛しているのではなかろうか。(漢字や仮名使いなど一部改変; ¶ 東京工業大学百年史 部局史 p. 918-919)

コラム3 大学の地方移譲を解決

加藤治喜(1949機械,良平さんと同期で友人)
出典: 蔵前ジャーナルNo. 995, p.132(蔵前工業会 創立100周年記念特集)

私たち昭和24 年(1949)の卒業生は終戦の翌年に入学し,9月から各学科に分かれて夫れ夫れの学友会所属のクラス会を作った。私は機械工学科であったが,希望する経営工学科が正式の学科になっていなかつたので,取り敢えずクラス会として経友会を作った。22年(1947)5月に23年卒業組から学友会の運営を引き継いだ。

9月になり ある日 和田学長から呼び出され,「GHQ民間情報部が国立単科大学を地方大学に移譲することを計画しているが,学長は文部省大学審議会長であるのでこれに反対することは出来ないから,学友会が学生運動として反対運動をして欲しい」と依頼された。対象になる大学は商大,文理大,千葉医大及び東工大の4大学であるので,早速これらの3大学の学生会に連絡して4大学連合を作り,政府と国会に陳情することにした。

当時の政府は社会党内閣で 片山哲首相であつたが,労働大臣の加藤勘十氏の息子の宣孝君や秘書の矢野凱也君が工業学校の友人であったので,森戸文相に御所,坂上君らが,片山首相には私と各大学の代表が面会することを手配して貰った。しかしこれらの陳情は政府のGHQに対する弱腰から効果が得られなかった。

ところが私の家の近所に下宿していた機械工学科の1年生が近くの教会の信者で そこの婦人牧師に事情を話したところ,反対のPetitionを作成すれば自分がGHQに届けると勧められたので,12月に私が署名したPetitionを作成して提出をお願いした。その結果,1月にGHQの担当者であるイールズさんから,この計画はOrderではなくSuggestionに過ぎないといわれて,我々の反対運動は成功し,移譲されなくて解決した。

コラム4 新制の第1期生

吉田 茂 内閣(1948.10.15~1954.12.10)の時だったが,政争で国会での予算成立が遅れたために,本学が新制大学としてスタートしたのは,1949年(昭和24)5月31日で,入学は6月21日にずれ込んだ***。合格通知はガリ版刷り(謄写版)だった(図➐)。

旧制と新制が混在したために大学側も準備が大変だったようで,授業の開始は秋からになった。新制第1期生の卒業に合わせて大学院も整備された。従って,本学で最初に博士号を授与されたのは,新制の第1期生として入学し大学院に進んだ学生たちだった。中でも名前が「あ」から始まる明畠高司(1953化工,58MS)は50音順で一番先に来ることから工学博士号の第1号を授与されるという栄誉に輝いたが(図➑),学生時代は1年A組で名簿の最初に名前があるので,クラスの世話人や種々の会の幹事をさせられることが多かった。

コンパの時などは,「学長も呼んで来い」と皆にせがまれ,その足で(ゲタ履きのまま)学長室にお願いに行ったこともあった。あいにく和田学長の予定はふさがっていて実現しなかったが,退室したところを庶務課の人(剣持輝雄)に見つかり,「ゲタ履きで学長室に入ってはダメだ。それに前もって庶務課に話を通さないと…」とひどく怒られたそうだ。事務官の名前まで出てきたので,相当な剣幕だったのだろうと想像したが,70年たっても当時の学生に名前を覚えて貰っているということは,幸せに違いない(下記***に登場する佐藤さんもその一人だ)。

***入学試験: 1949年6月8日に入試が行われた。募集定員300名のところ2000名近くが受験し,人気の高さは全国的にも目立った; 「東工大凄いな!一体どうなっているんだ」という話でもちきりだった。私立大学の試験は3月に終わっており,都立大の試験も5月にあったので,模擬テスト代わりに受けることが出来たそうだ。国立大の入試は7月にずれ込むのではないかという噂もあり,待ちきれずに5月に試験を行った都立大は合格者のほとんどに逃げられるという憂き目に遭った。

▪事務局長の佐藤憲三は話が良く分かり学生思いの人で,ボート・ピアノ・ファゴットを買うために50万円を用立ててくれた。授業料が3600円だった時代のことで,いかに学生が期待されていたかが分かる。(半澤重信 〔1953建築〕談)

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図➐  新制第1期生の入学許可書

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➑ 最初の博士号授与者の名簿(1958年〔昭和33〕3月26日)

コラム5 新制,旧制といわれた頃

島田 浩(1954 化工)
出典: 蔵前ジャーナルNo. 995, p.135(蔵前工業会 創立100周年記念特集)

私は昭和25年(1950),新制第2回生として,本学に入学した。新制,旧制といっても最近の学生には分かってもらえないだろうが,戦後間もなく行われた学制改革によって,旧制の小学校6年,中学校5年,高等学校3年,大学3年(6–5–3–3制)は,小学校6年,中学校3年,高等学校3年,大学4年,すなわち6–3–3–4の新制度に移行したのである。

大学も,たとえば東大に見るように,旧東大に旧制の第一高等学校,東京高校が合併,新制の東大になったのであるが,本学はどこの学校とも合併することなく単独で新制大学となったのである。このように旧制の大学で単独で新制大学となったのは,わが東京工大と一橋大学だったと記憶する。

しかし我々は新制高等学校3年終了で,入学はしたものの,いわば中学6年終了のごとき存在で,旧制の高等学校卒業生を扱ってきた本学の教授にしては,まるで中学生がいきなり大学にやってきたような感覚で,はたして新制は,どの程度の力量があるものか推し量るのに苦労したと後ほど聞いた。そのせいでもないと思うが,我々の入学した当初の物理,化学のテキストは英文で書かれたもので,聞くところによるとマサチューセッツ工科大学(MIT)のテキストであったと聞き及ぶ。

戦前のほとんどの高等学校が全寮制を敷き,卒業生は,もう,いわゆる「おとな」であったのに対して,我々は“中学出の”「坊や」であり,何かにつけて「新制は…」と差別されたものである。就職においても然りであった。当時もてはやされた「新制,旧制」の言葉は,いまや死語になってしまったが,大岡山の時代を思うと,どうしても,この言葉が思い出されてくる。

コラム6 旧制最後の受験票(類別入試,1948-1950)

旧制最後の受験票(提供:佐久間 精一,1953化工)。

佐久間さんは旧制最後の学年で入学試験(1950,昭和25年)は類別§だった。受験票の大きな数字の「3」は3類を意味する。佐久間さんは,卒業後は 公務員試験を受けて,燃料研究所に入り石油関連の研究に従事したが,国策分野だっただけに研究費は潤沢だった。

新制と旧制の学生が重なって在学した時期は,入学試験(1949, 1950)や授業(1949~1953)が別々で,大学にとっては負担が大きかったと思われる。佐久間さんの学年は旧制ゆえ3年で卒業したが,3年目は研究室に所属し卒業研究に励んだ。半年遅れで,新制の第1期生が卒研のために研究室にやってきた。新旧の学生間の交流は少なかったようだが,佐久間さんの場合は,同じ研究室の旧制と新制の学生が一緒になって卒業旅行として南房総 白浜温泉に行き,いい思い出になっているそうだ。

§ 1948年(昭和23)からは,一時的に,旧制の受験者の志望に合わせて第1類(機械・電気系など),第2類(繊維工学・冶金・金属加工など),第3類(化学系・化学工学など),第4類(建築など)に分けた類別入試が行われた(東工大クロニクルNo. 401, p. 2-4, 2005; 岡田大士,博士論文「東京工業大学における戦後大学改革に関する歴史的研究」,2005)。

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旧制最後の3類の受験票(提供: 佐久間 精一)

コラム7 全学祭の復活(1947)

良平さんが2年生になったとき(1947,昭和22年)に学園祭が復活した。良平さんたちは,実演を通して専門分野の面白さを来場者にアピールしたそうだ。長い間,「全学祭」と呼ばれていたが,大学紛争以降(紆余曲折*を経て),「工大祭」と名称を変更し,今日に至っている。

開催日は創立記念日である5月26日前後が慣例となっていたが,2003年度(平成15)からは すずかけ祭と開催時期を入れ替えて,10月開催となっている。春の全学祭と秋の文化祭がセットとなっていたが,今は秋の「工大祭」に統合されている。

すずかけ祭は,1979年に始まり**,2015年には37回目の開催となる。工大祭は学生主催だが,すずかけ祭はキャンパスの性格から教職員中心の運営となっている。

* 工業大学新聞 昭和47年(1972)8月20日,12月20日号; 東工大クロニクルNo. 43, p. 8, 1972。
** 東工大クロニクルNo. 118, p. 4, 1979。

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全学祭(1950年)のパンフレット(提供: 佐久間 精一)

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文化祭(1950年)のパンフレット(提供: 佐久間 精一)

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第1回すずかけ祭のパンフレット(1979)

コラム8 本館前庭の変遷

本館の前庭(A)と中庭(図➎)はフランス式庭園として設計された。

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図A 1940年10月

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図➎ 本館竣工まもない頃の中庭。本館中庭はフランス式庭園だったが,今は講義室不足を解消するために講義棟(2013年秋に竣工)に取って代わられている。

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図➎  本館中庭の講義棟

時期ははっきりしないがチューリップが栽培されていた時もある(B)。

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図B

戦後の食糧難の時は畑となり(図➊中),1950年には桜が植えられて和洋折衷となった。

カンナが彩りを添えていた時期は比較的長い(D)。

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図D 1965年頃

国立大学法人になった2年後の2006年にウッドデッキが敷かれ,フランス庭園は完全に姿を消した(E)。

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図E 2015年1月

1955年(昭和30)のキャンパス風景がカラー写真(C)で残っているのは珍しいが,これは尾木彰さん(1956機械)のお陰だ。使ったのはコダック製のリバーサルフイルムで,当時はハワイに航空便で送って現像してもらわなければならなかったそうだ(返送は船便)。

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図C 1955年 秋

取材に協力いただいた方々:

戦中戦後の入学(1945, 昭和20年入学)

中村 泰治

戦後最初の入学(1946, 昭和21年入学)

田中 良平

新制の第1期生(1949, 昭和24年入学)

明畠 高司

須山 英三

半澤 重信

柳澤 健

旧制最後の入学(1950, 昭和25年入学)

佐久間 精一

このメモは関係者へのインタビューに基づいて作成したもので、極力正確に期すよう努めたが、文書による裏付けが取れていない部分もある。

内容に誤りがあれば、ご指摘いただくとともに、関連資料が見つかった際には、乞:ご一報!

2015年1月(初版)
2021年4月(web版)
(発行) 東京工業大学 博物館 資史料館部門


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