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陶器コレクション

日立ソリューションズ㈱からの寄贈を契機に陶工濱田庄司とその時代を振り返る

コーヒー豆や茶葉にこだわる人は少なくない。そのこだわりをいっそう引き立てて至福のひとときをもたらしてくれるのが器だ。香りや口あたりまで,心なしか上質にしてくれる。誰かと向かいあって器を手にしていれば,小説のような世界が広がる。このような器に魅せられ,陶芸の道を究めたいと思った先輩たちがいる。窯業科を最初に作ったのが本学で,全国から才能に恵まれた俊英たちが集まった。彼らは,卒業後は日本各地に赴き,当時の主要産業だった窯業の振興に尽くすとともに,日用品の中に素朴な美(用の美)を認め,「作為を超えた実用品にこそ自然で健康な美が宿る」とする民藝運動の担い手としても活躍した。そんな中に濱田庄司がいた。昨年(2013),多数の濱田作品が日立ソリューションズから本学に寄贈された。時を同じくして,濱田が使っていた「登り窯」に火を入れて実際に陶器を焼き上げる試み「東工大Pottery Camp」(博物館主催)が 濱田が作陶の地とした益子で行われた。ちょうどいい機会なので,寄贈品の紹介を兼ねて,濱田とその時代を振り返ってみよう。

本学から巣立った陶芸家たちと彼らの陶器コレクション

本学は 陶芸の世界でも名を知られている。日本で 最初に 窯業科(無機材の前身)が設置された関係で 師弟を含め著名な陶芸家を輩出したからだ(注1)。博物館では,板谷波山(1872~1963,文化勲章),河井寛次郎(1890~1966,文化勲章辞退),濱田庄司(1894~1978,人間国宝・文化勲章),辻 常陸(1909~2007),島岡達三(1919~2007,人間国宝),田山精一(1923~),加藤 鈔(1927~2001),村田 浩(1933~)など本学関係者の作品を集め,常設展示や企画展示を行ってきた。この度,㈱日立ソリューションズから濱田庄司らの陶器作品が寄贈され,本学の陶器コレクションがいっそう充実することになったので,お知らせかたがた紹介したい。寄贈された作品は次の34点:濱田庄司の作品24点,濱田晋作(庄司の次男,1929~)の作品9点,及びバーナード・リーチ(1887~1979)の作品1点(図➊, ➎)。

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図❶ 鉄絵花生(濱田庄司),生け花(丸山良子)。日立ソリューションズからの寄贈品

濱田庄司と寄贈者の接点

濱田庄司は,栃木県益子町で作陶に励んだ。益子(ましこ)の土と釉薬(ゆうやく)にこだわり,素朴な民窯の技術を用いて,自由で創造的な作品を生み出していった。柳宗悦(1889~1961),河井寛次郎,バーナード・リーチらと共に,民芸運動を展開したことでも知られている。益子町には濱田庄司邸と工房が当時のまま「益子参考館」として残され,一般に公開されている。そこには,濱田庄司が作陶の参考にするために集めていた陶芸作品も多数展示されていて,見る人をひきつける。住居用に移築したという昔の庄屋の家も一見の価値がある。庄屋の家には入口が2つあって,左が代官を迎える玄関で,右が家族用の日常門だった。たまにしか使わなかっただろう左玄関の立派さも歴史(士農工商)を雄弁に物語っている。工房に今も使える状態で保存されている足踏みロクロの周りは,一種のパワースポットのような感じで,濱田庄司が,土の力を借りて,形にしたかった日常の中の美について瞑想に耽ることが出来る。古今東西,作家と作品の故郷を訪ねてみたいと思う人が多い所以だろう。

㈱日立ソリューションズの第二代目社長だった佐藤 孜(1929~2012)が栃木工場勤務時代に益子焼の魅力にとりつかれ,濱田庄司の作品を中心に収集したコレクションを,品川シーサイドに本社ビルを新築した際にショールームを作って主に社員向けに展示していた。佐藤さんが社長だった時代は身近に置いて会社の活力にしたいという意向だったが,代が替わり,濱田庄司作品は歴史的にも価値が高いので,「社内だけではもったいない。広く社会に公開したい」という考えが強くなったそうだ。

この意向を受けて,日立ソリューションズの小野 功(1968電気)相談役から,蔵前工業会の本房文雄(1968電子)事務局長を経由して,本学に寄付の打診があった。大学としてはもちろん大歓迎で,博物館が窓口となり,財産管理グループや広報・社会連携課の協力の下に手続きを進め,2013年11月6日に無事に寄贈作品を本学の博物館に収蔵することができた。感謝の会は,12月19日に関係者を招いて行われ,三島良直学長から佐久間嘉一郎社長に感謝状が手渡された。

濱田庄司の生い立ち(注2)

濱田庄司(1894~1978)は,120年前(明治27)に川崎・溝の口の母の実家で生まれた(図➋); 当時は総領のお産は母方の里ですます習慣だった。父の実家も溝の口にあり,江戸時代から代々続く菓子屋(注3)だった。幼少の頃の濱田は体が弱く,家があった東京の芝 明舟町(しば あけふねちょう)よりは,田舎の方が体にいいだろうということで,今度は父方の実家で5歳から10歳まで,祖父母と暮らした。画家志望だった父の血筋だろうか,濱田は小さい頃から絵と書が好きで,小学生になるとよくスケッチに出かけた; 父は画家の道を諦め,文房具店を営んでいた。中学受験に備えて,三田の両親のもとに戻り,東京府立1中に進んだ。日曜のたびに水彩道具を持って写生に出かけた。書も師範について学んだ。5年制の旧制中学3年になり,将来について考えるようになると,父の勧める医者や自分の希望である画家などについて思いをめぐらせたが,やはり絵の道に進むのが一番自然だと思うようになった。多少の自信はあったが,葛飾北斎(1760~1849)や横山大観(1868~1958)のように,それまで誰も描かなかったような絵が描けるかどうかは,やってみなければわからない。一方で,日々の生活の道具についても大きな興味を抱いていた。それらは,周囲とわだかまりなしにそこにあり,自然で美しいし,役に立つ。こういう ものつくり によっても,気持ちの満足は得られるだろう。生活に役立つ工芸の道に進むのも良さそうだと考えていた。この「工芸の道」に入ることを後押ししてくれたのがルノアールの言葉(注4)だった。工芸の中でも「陶芸」をやろうという気持ちは自然に固まり,上の学校も板谷波山(1872~1963)のいる東京高等工業学校(蔵前にあった本学の前身)におのずと決まった。

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➋民藝及び東京高等工業学校(本学の前身)関連の陶芸家の個展のポスター。左上から右下へ: 板谷波山(泉屋博古堂分館,2014),富本憲吉(京都国立近代美術館,2006),バーナードリーチ(日本民藝館,2012),柳宗悦(鳥取県立博物館,2012),河井寛次郎(日本民藝館,2010),濱田庄司(日本民藝館,2014)。

蔵前時代 (1913.9~1916.7)

恩師となる板谷波山と先輩 河井寛次郎との出会い

入試の初日は数学で,これをクリアーできないと2日目以降の試験科目(英語・物理・化学・写生・日本画の運筆・用器)は受けられなかった。最終の口頭試問では「やきものやになり,板谷波山先生のようなものを作りたい」と答えた。

板谷波山は,茨城県の豪商の家に生まれた。小さいころから喧嘩っ早く,丁稚奉公に出された時などは,どこへ行っても1週間と続かず,東京美術学校(藝大の前身)時代には決闘の話まで出た。美術学校の彫刻科を卒業後は,2年間のモラトリアムの後,石川県工業学校の彫刻科教諭になった(1896,明治29)。2年後に彫刻科が廃止されたために,陶磁科を担当することになり,陶芸の道に入った(もともと陶芸には興味があったが,上野の美術学校には陶芸科がなく,仕方なく彫刻科にしたという経緯がある)。この分野は全くの素人だったが,焼物の研究に没頭し,製陶技術(九谷焼の難しい技法やヨーロッパで盛んになりつつあった新たな技法など)(注5)をマスターしていった。24歳で金沢に赴任してから7年目の1903年(明治36),そろそろ陶芸家として独立したいと思っていた時に,本学の手島精一(1850~1918)校長や窯業科の平野耕輔(1871~1947)科長らに乞われて東京に戻り,本学の窯業科嘱託として実習教師を務める傍ら,田端に工房を構えた。その後,貧困や数々の苦難を家族とともに乗り越え,彫刻の技を生かした独自の陶芸世界を切り開いた(81歳で文化勲章)。板谷の作品は“光を包む美しき やきもの”(注6)と賞されている。

濱田にとって,蔵前にあった東京高等工業学校での3年間の学生生活は充実していた。授業の他に,画塾に通い,週末には たびたび板谷宅に押しかけ 彼の工房のたたずまい・仕事ぶり・生活を肌で感じ取ることができた。雑談にも勇気づけられた。板谷が,結婚した時の話は まさしく「事実は小説よりも…」だった。ある日,板谷が本郷の切り通し坂を歩いていると,袴姿の女学生が日傘をたたんで荷車の後押しをしているのを見かけた。困っていた荷車を見て親切心から手伝っていたのだが,「こういう心根の優しい人ならば苦労を共にしてくれるに違いない」と,その足で娘さんの親元に頼みに行ったというのだ。初めは ランプの油を買う余裕がなく,暗くなれば寝て,日の出とともに仕事を始めたという話も 学校での授業以上に 心に沁みた。益子焼の存在を知ったのも板谷邸に飾ってあった土瓶からだった。板谷の出身地は茨城県の下館で,距離的に近かったせいか(約20 km),益子には詳しかった。

2学年上の河井寛次郎(1890~1966)とは入学早々に知り合い(1913),お互いに陶工志望ということで意気投合した。河井も焼き物の道を志したのは中学時代だったという。河井が卒業するまで1年の付き合いだったが2人の間には強い信頼関係ができた。濱田は,当時は秋入学で9月が新学期の始まりだったので,3年生になる直前の夏休みに,各地(美濃・瀬戸・万古・信楽・伊賀・京都・九谷)の窯めぐりをした。河井が勤めていた京都の陶磁器試験場では,「卒業したら,ここに来ないか」と誘われ,そうすることにした。

京都時代 (1916~1920)

京都市陶磁器試験場は,初代場長が本学でワグネルの薫陶を受けた藤江永孝(1865~1915)で,本学とは縁が深かった。そこでは,釉薬の達人と呼ばれた小森 忍(1989~1962,大阪高等工業学校出身)のもとで,先輩の河井と一緒に 主として釉薬の研究に励み,基本となる顔料の比率を変えて調合した1万点以上の釉薬を分析した。この経験が,濱田にとっては(後述の)バーナード・リーチの展覧会を訪れてリーチと議論できる下地になったし,河井にとっては清水焼陶工(5代清水六兵衛)の釉薬顧問を2年間にわたって務め,それが縁で京都の五条坂にあった清水家(きよみずけ)の古い窯を譲り受け,独立する原動力になった。

さらに京都時代には,富本憲吉が出身地の奈良県生駒郡安堵村(あんどむら)に窯を築いていたので,そこを訪問し,彼との交遊が始まった。2年ほどしたところで,上述のようにリーチとの交流も始まり,休暇を利用してリーチ窯を手伝うなど,徐々に陶芸家として生きていく自信をつけることができた。このように京都時代は,濱田が後に振り返っているように,まさしく「京都で道を見つけ」たといえる。

京都時代のエピソードとしては,洋書を買うための借金の話が有名だ。当時は,洋書は目の玉が飛び出るくらい高かった。それでも欲しいものは欲しい。丸善に頼んで,今でいう月賦で買うことにした。毎月給料日になると店員さんが申し訳なさそうにお金を受け取りに来た。それもそのはず,月給が30円そこそこの時に,毎月20円ずつも支払っていたのだ。

河井寛次郎は島根県の大工の家に生まれた。4歳の時に母親を亡くし,里子に出されたが,父の再婚後は継母に育てられた。河井の田舎では,生母の産後の肥立ちが悪い時などは,里子としてしばらく育ててもらうことが多かった(注7)そうで,寛次郎も周囲の暖かい愛情に包まれて育った。上述した本学の窯業科には中学校長の推薦により無試験(注8)で入学した。そして京都市陶磁器試験場を経て,本格的に陶芸の道を歩み出したのは1920年(大正9)だった。自分の作風を模索する中で,濱田や柳らと「民芸」を推進するようになった;戦後は民芸の中でも独特な作風を築き,自由で独創的な新境地を切り拓いていった。人間国宝や文化勲章などはすべて断り,生涯 無位無冠の一陶工を貫き通した。決して偏屈だったわけではない。むしろ人から慕われ,河井邸は客が多いことで有名だった。「暮しが仕事 仕事が暮し」の言葉を残している。「(作陶の場として)なんで京都をお選びになったのですか」と聞かれ,「いや,(清水家から譲り受けた)この窯があったからです」と答えているのも河井らしい。

「民芸」へのプロローグ

幼少期を溝の口で過ごしたことは 濱田にとってはかけがえのないことだった。後に,「田舎は健康な心の根づくところ」と振り返っている。「民芸品のよさは,健やかな暮らしのにおいが感じられるところにある」という濱田の美意識の基調は溝の口で形成されたのだろう。

もう一つ重要な出会いがあった。中学時代に銀座の裏通りに小さな画廊「三笠」ができた。そのショー ウインドーに陳列されていた楽焼に惹かれ,学校の帰りによく立ち寄って眺めた。作者は,後に民芸運動を通して生涯の交わりを結ぶことになるバーナード・リーチ(1887~1979)と富本憲吉(1886~1963)だった。民芸運動の序曲はこの辺りから静かに始まっていたことになる。それが大きなうねりになるきっかけは,一冊の本だった。

「民芸」の展開 丸善の2階 洋書売り場 (1913)

民芸運動,それは1冊の本との出会いから始まったといわれている。衝撃的な出会いを果たしたのは,濱田より少し年配の富本憲吉と柳宗悦(1889-1961)で,1913年(大正2),約100年前のことだった(図➌,最下行の ♥ 印)。

富本憲吉は,東京美術学校 図案科 建築部在学中に英国に私費留学し,1910年に帰国,清水建設に勤めたが ほどなく辞め,翌年イギリス人リーチの通訳として6世 尾形乾山(けんざん)(注9)のもとに同行したことが契機となり,リーチと共に6世 乾山に師事して陶芸の道に入っていた。そんな富本が日本橋 丸善の2階でふと手にして虜となったのが1909年に出版されたLomaxの著書“Quaint Old English Pottery”だった(quaint: 風変わりで趣のある)(図➍)。しかし大変高価ですぐには買えなかった。

ここで,濱田に大きな影響を与えることになるリーチが日本に来るまでの経歴と富本がリーチの通訳をするいきさつを見ておこう。

バーナード・リーチは父が植民地官僚(判事)だった関係で,香港で生まれた。母親が産後の肥立ちが悪く ほどなく亡くなったために,日本で英語を教えていた母方の祖父母に預けられ,父親が再婚するまでの4年間を京都で過ごした。幼少時に,香港—日本—香港—シンガポールというように東洋を転々とし,10歳の時(1897年)に,高等教育を母国で受けさせたいという父親の希望で,一人で英国に向かい寄宿舎生活を始めた(両親が帰英したのは6年後の1903年)。16歳の時に,画家を目指してロンドンのスレード美術学校に入学したが,癌を宣告された父のたっての願いで,銀行員に転身した。しかし,芸術の道を簡単に諦められず,継母との確執もあって,次第に精神的に追い詰められていき,銀行を辞めて放浪の旅に出た。その旅から帰って,ロンドン美術学校でエッチングを学んでいた時に,同じ学校に留学していた高村光太郎(1883~1956)と知り合い日本に郷愁を抱くようになった。父の遺産に加え,「エッチングを教えれば,日本での生活も何とかなるのではないか」という高村の助言もあって,リーチは1909年(明治42)に,高村の紹介状を手に,銅板 版画家として来日し東京下町の上野桜木町に居を構えた(落ち着いたところで妻を呼び寄せている)。エッチング教室には,柳宗悦・志賀直哉・武者小路実篤・児島喜久雄・里美弴(とん)などの白樺派の人たちが興味を示し集まったが,実際にはエッチングを習うというよりは芸術論議に花が咲いたようだ。

このようなリーチと富本が知り合うのは不思議な巡り会わせだった(注10)。富本が英国留学を終え,帰国の途についたのは1910年5月だった。その英国からの船の中で一人の青年画家(レジー・ターヴィー)に出会った。彼は,1903年にロンドンのスレード美術学校でリーチと一緒だった関係で,日本にいるリーチに会いに行くところだった。1ヵ月半の船旅の間にすっかりリーチに興味を持った富本は,帰国早々リーチに手紙を出し,新築間もないリーチ宅を訪ねた。リーチ夫妻とターヴィーが歓迎してくれた。彼らの親交は生涯続くことになる。富本も民芸運動の推進者の一人になっていくが,後年,柳とは決別し,独特の模様の世界を切り拓いた(図➋)。

柳宗悦は学習院高等科に在学中,雑誌「白樺」の創刊に参加し,東京帝国大学哲学科で英語圏の宗教哲学について学んだ。叔父(おじ)にあたる嘉納治五郎(1860~1938)が千葉県の我孫子に別荘を構えると宗悦も招かれここに住んだ(1911)。柳宗悦の誘いもあって,志賀直哉や武者小路実篤らも我孫子に引越し,白樺派文学が大きく進展するきっかけとなった。リーチも,一時精神的な拠り所を求めて中国に渡っていたが(1915~1916),期待が裏切られ失意のうちに日本に戻り,柳に励まされて我孫子にやってきて窯を構えた(1917)。民芸運動の舞台となる我孫子とそこに集まった柳宗悦とバーナード・リーチの説明をしたところで,丸善の2階に話を戻そう。

柳が“Quaint Old English Pottery”に出会ったのも富本と同じ1913年だが,まだ学生だった柳には とても手が届く値段ではなかった(卒業は1913年7月)。富本の方は,しばらくして作品展の売り上げで何とか お金を工面した。柳をさそって丸善に行き,念願の本を手に入れた富本ではあったが,本に大金をはたいてしまい,奈良へ帰る旅費が足りなくなった。不足分をリーチに借りようと,工房を訪ねた。その時に問題の本を見せられたリーチは えらく興奮し,旅費を貸す代わりに,「その本を しばらく ここに置いてもらえないか」と言いだす始末で,まるで質屋をたずねたような結果になってしまった。

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➌濱田庄司の略年表及び時代背景

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➍"Quaint Old English Pottery" by Charles J. Lomax (1909)

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➎黒釉壷(Bernard H. Leach),生け花(丸山良子,櫻井理江子)。寄贈: 日立ソリューションズ。

現代に蘇った スリップ ウエア(Slipware)

問題の本を介して,富本,柳,そしてリーチの心を鷲づかみにしたのは,産業革命によって忘れ去られていた英国の古い陶芸品の素朴な造形美だった。これらの陶器は,白色や有色の泥漿状の化粧土(Slip)で模様を描き,鉛釉をかけて低火度で焼成されることから,スリップ ウエアと称されている。偶然出会った1冊の本ではあったが,富本とリーチはそこに記されたスリップ ウエアの手法をマスターし,多くの優れた作品を生み出していった(柳は思想家として民芸運動を牽引し,優れた著作を残したが,陶器は作っていない)。彼らの作品を見た濱田庄司や河井寛次郎は,それらに強く共鳴し,富本やリーチの個展には必ずといっていいほど足を運ぶようになった(京都時代)。特に濱田は英語ができたことから,そのような機会を通して,リーチとの親交を深めていった。

St. Ives (1920~1923) 震災(1923.9.1) そして益子(1924.6~1978)

濱田庄司がリーチに初めて会ったのは,1918年の神田 流逸荘(Ruisseau)でのリーチの個展会場で,翌年には我孫子にリーチを訪ねている(京都時代)。リーチにとって,濱田は釉薬の調合などの専門的なことについて英語で話ができるという意味で,かけがえのない人材であり; 濱田にとっては,作陶のスタイルを決定づけたという点で,リーチとの出会いは意義深かった。そして濱田は,26歳の時(1920年)に,33歳のリーチが帰英する際に同行し,英国南西端のコーンウォール州セント・アイヴスで4年近くを過ごし,リーチと共に英国の伝統陶芸に新しい息吹を吹き込もうと努力した。しかし,そんな中で関東大震災が起き,やむなく帰る決心をしなければならなかった。帰国後は何の迷いもなく栃木県の片田舎である益子に入った(1924,大正13,30歳)。学生時代に恩師 板谷波山から益子について聞き,渡英前には実際に現地を訪ねて 益子焼に興味を抱いていたのはもちろんのこと,英国の田舎の自然と人々の暮らしに心を動かされていたからだ。

本格的な作陶 (春夏秋は益子,冬は沖縄)

震災の報を受けて1923年末にロンドンをたった濱田は,視察を兼ねてフランス・イタリア・エジプトなどを経由して1924年(大正13)3月末に帰国した。

神戸で下船すると,京都の河井寛次郎のもとへ直行した。河井の喜びようは大変なもので,溢れる涙を拭きもせず,「よく帰ってくれた,よく帰ってくれた」と繰り返した。ちょうどその頃,河井は一つの転換点にさしかかり,これまでの作風からの脱皮を模索していた。英国で経験を積み見聞を広めてきた濱田の話は新鮮だったに違いない。話は尽きなかった。「奇をてらわず,ただいいものを作りたい。作ったというより,生まれたと思えるものがいい」という濱田の心境には,京都市 陶磁器試験場 時代に(1918年,大正7,24歳),夏休暇を利用して,河井と二人で訪れた「沖縄」も大きく影響していた。そこには素朴で純粋なものが色濃く残っていた。見渡す限りの砂糖黍(さとうきび)畑は印象的だったに違いない; サトウキビ紋様(注11)は後に濱田作品のトレードマークになった。濱田は河井宅に2か月世話になったが,この間に,2人で柳宗悦の家をたびたび訪ねている。柳は関東大震災で被災し一家で京都に引っ越していた。3人は意気投合し,民芸運動の乳母役を果たすことになる。

東京に帰り着くと,濱田は,親から「溝の口に窯を築いてはどうか」と勧められたが 断って,益子に向かった。河井寛次郎の知人(飯野 斐)を介して,ある程度の根回しは してあったのだが,濱田は 益子では,風変わりなよそ者と映ったらしく,簡単には受け入れて貰えなかった。スパイか 何か 怪しい者ではないかという噂まで立つ始末だった。もちろん家を貸してくれる人もいないので最初は宿屋暮らしだった。そのうちに 何とか 職人長屋に住み込ませてもらえるようになったが,土地の人は なかなか打ちとけてくれなかった。益子に入って2カ月近く,そろそろ夏という頃になってようやく,「一緒に仕事をしてみないか」と声をかけてくれる人(佐久間藤太郎)(注12)が現れた。彼は,渋る家族を,「濱田さんは,高等工業を出て,英国へまでいって勉強してきた方なので,是非うちで」と説得した。

そんな中,子供のころから我が子のように目をかけてくれていた人の世話で見合いをし,年末の冬至の日に質素な式(料理持ち寄り・酒なし・普段着)を挙げた; 冬至以降は日が伸びる一方だから,この日に結婚すると幸せになれるということだった。まだ住む家がなく,寒いので,正月は沖縄で過ごすことにした。沖縄に着いて,蔵前の先輩に挨拶に行くと,「空き家があるから,宿屋などに泊まらず,そこを借りろ」ということになった。結局,沖縄には3カ月滞在し,壷屋(つぼや)窯に通って作陶した。益子での 借り間 住まいは,5年間にも及び,その間は自分の窯を持てなかったので,晩秋から冬の間は沖縄で仕事をするという生活パターンだった。益子と沖縄をこよなく愛したのだ。濱田の中で,益子の土と技が沖縄の風土と絶妙にミックスされ,簡素な造形と釉薬の流描による大胆な模様(図➋)やトレードマークとなった“糖黍文(とうきびもん)”(下図➏)が生まれたのではないだろうか。

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➏ 赤絵による黍紋(きびもん)。

濱田庄司記念 益子参考館 (1977)

益子に入って5年目(1929,昭和4年),ロンドンで開いた個展が大好評を博した。その時の収益をもとに,翌年,家を持つことにしたが,新築ではなく,古い農家を譲ってもらい移築した。今も残されているが,これも無名の大工や茅葺き職人たちが作り上げた 一時代を代表する「用の美」で,だれもが美しいと感じ郷愁にかられる。続いて,念願の窯を築き(1931,37歳),益子の土と技法を生かしながら本格的な作陶を開始した。この頃には益子の土地柄や人柄のよさが身に沁みて分かるようになり,土地の人たちも温かく受け入れてくれるようになっていた。倉敷での個展(1932)(注13)を機に,クラボウ等で知られる大原財閥を築き上げた大原孫三郎(1880~1943)の知遇を得て,よき理解者になって貰えたのも幸運だった。作品は多くの人々を惹き付け,展覧会を心待ちにするファンが日本のみならず海外にも増えていった。

陶工としては,益子に篭り ひたすら作陶に打ち込むのも その道を究める一つの方法だが,濱田は各地に足を運んで,吸収したものから創作のエネルギーを得るタイプだったようだ。濱田自身,自分のことを次のように分析している:「河井寛次郎や棟方志功(むなかた しこう,1903~1975)(注14)は次ぎ次ぎと泉のように作品が湧いてくるが,私の場合は なにか刺激するものが手許にないとうまく行かない。創造にも二通りの型があるようだ」。濱田は 沖縄以外にも,日本各地や世界(注15)への旅に出て,目に止まった作品や日用品を創作の参考にするために収集した。晩年(1977年,83歳)には,これらの収集品を展示し広く一般の人々にも「参考」にして欲しいとの思いから,自邸・工房の一部を使って,「益子参考館」を開設した(図➐)。ここには,濱田が収集した品々と彼自身の作品をはじめ,僚友であった河井寛次郎やバーナード・リーチらの作品が展示されている。どれも力強く健康的で,大きさにも圧倒される。柳や河井と共に,物心両面から民芸運動を支えた濱田の魂がこもった館だ。

濱田が得意とした流掛け・赤絵・塩釉などの技法や「黍文(きびもん)」と呼ばれる独自の文様を施した作品は,「益子参考館」及び本学の博物館の他,「益子陶芸美術館」,「大原美術館」,「日本民藝館」など多くの美術館で見ることができる。

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➐ 益子の風景。右手に益子参考館を望む。写真: 乾剛 INUI Tsuyoshi

私たちの営み それは 「継承と創造」

器がある限り,民芸の神髄(注16)は継承される。使い勝手がよく,格好もよくて,大切に使いたくなる器。そこには愛着ともいうべき日常の美がある。人々が好んで使ってくれさえすれば作り手はそれで十分なのだ。器を手にした時に作り手に会ってみたいという思いが湧いてくれば陶工冥利に尽きるだろう。人類が道具を使い始めて以来,私たちと共にあった「用の美」は,「民藝」という言葉の誕生によって誰もがはっきりと認識できるようになった。形と言葉が一体になった時に初めて 私たちは その形を作る営みを真に理解できるのかも知れない。民芸という言葉が生まれたのは,濱田が英国から帰国した翌年(1925年,大正14)の暮れ,柳・河井・濱田の3人が木喰上人(もくじき しょうにん,1718~1810)の遺跡を訪ねる紀州への旅の車中(汽車)だった。それ以来90年近い歳月が流れ,器の作り手の世代交代は進んだが,私たちが器を必要とする限り,その本質ともいうべき「用の美」がなくなることはない。

世代交代は“継承と創造”の繰り返しとみなせる。この繰り返しこそが,より使い易いもの,より美しいものを生み出す原動力に違いない。今回の主人公である濱田庄司は「私の陶芸の仕事は,京都で道をみつけ,英国で始まり,沖縄で学び,益子で育った」と書き残している。「自分は或技術を修得するのに十年みっしりかかった。しかし,それを洗い去るのに二十年でも足りない」とも記している(注17); 継承も簡単ではないが,創造となると,濱田ほどの陶工にしても,いまだ道半ばだという。益子での足場作りとその後の創作活動の苦労・密度・質が偲ばれる。

蔵前(東京高等工業学校)での学生生活は,有名な「濱田の言葉」の中には出てこないが,次のように書きたしても許してもらえるだろう(太字部分)。

蔵前で基礎を身につけ
京都で道をみつけ
英国で始まり
沖縄で学び
益子で育った

作者の資質・鍛錬の化身ともいうべき作品。そのよさが,作者の生き様への共感によって,いっそう引き立てられるとすれば,作者の略歴のみならず,エピソードも紹介した方がいいだろうと考え,ここでは人物評伝も交えて,寄贈作品を紹介させて頂くことにした。本稿が,その多彩な魅力を味わう一助になれば幸いだ。

東工大Pottery Camp in 益子 (2013-2014)

ちょうど 濱田庄司 作品の寄贈(注18)の話があった頃に,私どもの博物館では,益子に出かけて作陶を体験する企画「東工大Pottery Camp」の案を練っていた(図➑)。これは本学が推進する「日本再生: 科学と技術で未来を創造する」プログラムの一環として,“やきものづくり”を通して,“ものつくりの真髄”を学び継承しようという試みで,半年がかりの一大プロジェクトだった(注19)。1916年(大正5)に濱田庄司が本学の前身である東京高等工業学校を卒業してから約100年という節目のときに,彼が生涯にわたって作陶を続けた益子の地で,彼が改良に改良を加えて作り上げた釉薬を使って,しかも彼が愛用していた「登り窯」に火を入れて,自分たちの作品を完成できたことは特別な体験だった。久々に味わう野生的な興奮とでもいおうか,参加した学生にとっても発奮材料になったに違いない。日立ソリューションズからの寄贈とPottery Camp,いずれも濱田庄司がらみのことで,両者があいまって,日頃 受動的(Passive mode)になりがちな私たちの心を能動的(Active mode)にしてくれた。

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➑ 東工大Pottery Camp のポスター。

たったの15秒?  いや,60年+15秒です

濱田は,上質とはいえないことを承知の上で,土は益子の土にこだわった。釉薬も地元産のものにこだわったが,これについては工夫を凝らし,多彩な色を生み出した。益子の釉薬「赤粉」は,屋根瓦や水瓶(みずがめ)などに塗られるだけで,あまり美的とは考えられていなかった。濱田はこれを低温で焼くなど改良を重ね,果物の柿を思わせる「柿釉」を作り上げた。さらに,この柿釉に裏山のクヌギの木を燃やしてできた灰のエキスを混ぜることにより 渋みのある「黒釉」なども生み出し,従来の益子焼を世界の益子焼へと育て上げた。作品に関しては,沖縄滞在の経験から琉球赤絵や黍文を考案したほか,英国のスリップ ウエアにヒントを得た(注20)とされる「流し掛け」技法による躍動感あふれる線模様などを編み出している。スリップ ウエアでは,ケーキ屋さんが生地の上にチョコレートを絞り出してデコレーションしたような,細い線状の装飾が施されているものが多い。濱田は,この自在な線を取り入れようと30年にも及ぶ試行錯誤を重ね,柄杓(ひしゃく)による「流し掛け」にたどり着いた。柄杓で釉薬をすくって掛けるだけで自然に模様ができるので,この絵付け法は簡単に見えるが,実際は奥の深い技法のようだ。

流し掛けの実演をした時の逸話が残されている。呼吸を整え終えると,柄杓に半分ほど釉薬を汲み,それを(素焼きした)陶器に掛け流して,一気に模様を描いた。筆による絵付けと違って速い。観ていた人たちの中の一人が「15秒しか かかっていない。速すぎるのではないか。そんなんで満足できる作品ができるのか」と訊(き)いた。濱田の答えはこうだった:「この皿を作るには60年と15秒もかかっているのです」。Pottery Campでは,この言葉を味わいながら,「流し掛け」にも挑戦した。

会話を楽しむ

いま 益子を訪れる人は 年間200万人にも達している。このように益子が世界有数の陶芸の里となった遠因には濱田の性格があったのかも知れない。濱田は中学生の時に38歳の母をチフスで亡くしている。その母親が死の床にあって,言い残したのは「お前は 男にしてはおしゃべりが過ぎる。慢心してはいけません」ということだった。生来の「おしゃべり好き」によって国内外の人的ネットワークがごく自然に出来上り,益子が広く知られるようになっていったのではないだろうか。浜田は「人と会って話をするのが,私の一番の健康法です」と,晩年になっても超過密スケジュールをこなした。会話を楽しみたいときは,濱田の器を使うとよさそうだ。

(注1)黒田草臣,「名匠と名品の陶芸史」,講談社選書メチエ,2006。やきものを世界的な芸術に昇華させた巨人たち13人を紹介している:荒川豊蔵(1894~1985),三輪休和‐十代・三輪休雪(1895~1981),石黒宗麿(1893~1968),加藤唐九郎(1898~1985),板谷波山(1872~1963),富本憲吉(1886~1963),金重陶陽(1896~1967),河井寛次郎(1890~1966),加藤土師萌(1900~1968),濱田庄司(1894~1978),小山冨士夫(1900~1975),川喜田半泥子(1878~1963),北大路魯山人(1883~1959)。

(注2)濱田 庄司,「浜田庄司—窯にまかせて」,日本図書センター,1997; 濱田 庄司,「無盡蔵」,講談社文芸文庫,2000。

(注3)菓子屋の名前は大和屋。その菓子屋は,名前が現代風に「ANDY GARDEN」(アンディ ガーデン,愛犬の名前に由来)に変わっているが,今も溝の口駅の近くにあり,“濱田家のケーキ屋さん”として親しまれている。

(注4)「フランスには大変多くの美術志望者がいるはずであるが,なぜそのほとんどが絵だけを描きたがるのだろう。半分でも三分の一でも,工芸の道に入ってくれれば,工芸の質も向上するだろうし,画家同士の競争も緩和されるだろうに…」

(注5)石川県工業学校陶磁科の科長は,東京高等工業学校でワグネル(図➌,左; ➒)の薫陶を受けた北村彌一郎(1890年卒)だった。同じくワグネルの薫陶を受けた平野耕輔は1891年の卒業。ワグネル(1831~1892)亡き後,第2代校長 手島精一はワグネルの私的な助手をしていた平野耕輔を助手,追って助教授に引き立てるとともに,日本近代陶芸の開拓者である板谷波山を招くなど陶器玻璃工科(1886年に設置,G. ワグネルが主任;1896年に窯業科と改称)を盛り上げた。石川県工業学校陶磁科は,本学と並び,窯業技術研究の中核の一つとなっており,当時フランスを中心に一世を風靡しつつあったアールヌーボー(Art Nouveau)などの意匠研究や釉下彩などの加彩法,さらには窯変釉や結晶釉など,最先端の研究を行っていた。

(注6)「葆光彩(ほこうさい)」は板谷波山の独創的な技法で,艶消しの葆光釉によって,薄絹を透かしたような淡い光を放つ。幽玄の美ともいわれる。板谷の研究者である荒川正明(学習院大学 教授)は,「作陶家の表現したいものはすべて作品の中にこめられている」とする観点から,作品を鑑賞するときは,いたずらに作者の言葉やパフォーマンスに惑わされてはならないと主張し,「現代の陶芸家は自己の作品に関して,やや雄弁に語りすぎる嫌いがあるが,板谷波山は自分の器について,ほとんど何も語らなかった」と評している(「板谷波山と近代の陶芸」,茨城県陶芸美術館,2001)。

(注7)河井寛次郎,「六十年前の今」,東峰書房,1968。最初にこう記されている「これは私の郷里である,山陰の小さい港町での,今から凡そ六十年程前,明治の中頃の子供達は,どんなものを見,どんなものに見られ,どう暮らしたかと言ふ様な記事でありますが…」。この中に,里親夫婦が4歳になるまで預かっていた里子を返す場面が描かれている。里親夫婦のつらい気持ちがひしひしと伝わって涙を誘われる。科学者の眼と詩人の心をもった陶芸家といわれるゆえんだ。河井がリーチと知り合いになったのは,河井がリーチの展覧会を訪れて気に入った作品の購入手続きをし,後日,リーチ宅に受け取りに行った1911年(学生時代)。1913年(22歳)には腸チフスに罹り,1年間休学し郷里で療養した。1917年に京都市陶磁器試験場を辞めて,作陶家として独立するまでの2年間は五代清水六兵衛の釉薬顧問を務めた。三好研太「河井寛次郎の造形思想に関する研究」,兵庫教育大学,修士論文,平成19年度(2007)。

(注8)名称等の理由で学生が思うように集まらず,学校運営が困難に直面していた時に着任した手島精一校長は,学校名を「職工学校」から「工業学校」に変えたほか,地方入試の制度や旧制中学校(5年制)卒業生のうち工業関係科目で優秀な者を無試験で入学させる推薦制度を設けるなど高等教育機関としての地位固めに努力した。

(注9)6世 尾形乾山(浦野繁吉):バーナード・リーチは,日本に来て2年目の1911年に,森田亀之輔を案内役に富本と一緒に訪れた画報社(吾楽殿)で初めて経験した楽焼の絵付けに魅了され,この工芸を自分でも始めてみたいという欲望にかられた。即刻,師匠を探し始め,見つけたのが六世尾形乾山だった。彼の第一印象をリーチはこう記している:「老人で,親切で,貧乏で,明治時代の新しい商業主義から時代の片隅に押しやられ,その頃東京北部の貧民窟の小さな家に住んでいた」。

(注10)中山修一,「富本憲吉と一枝の家族の政治学」,表現文化研究8, 43–75, 2008; 8, 159–200, 2009; 9, 129–164, 2010; 9, 165–202, 2010.

(注11)濱田庄司の「黍文(きびもん)」。沖縄のサトウキビ畑のスケッチから生まれた文様。多くの濱田作品に繰り返し用いられた。大原美術館などには,黍文コーナーがあり,筆の冴えから濱田の熟練ぶりを,また その文様の形象と展開から濱田の感性の瑞々しさを感じとることができるように配慮されている。

(注12)塚田 泰三郎,「益子の窯と佐久間藤太郎」,東峰書房,1965。濱田が益子の人たちに受け入れられていく過程も温かい筆致で描かれている。p145「…すでに濱田氏は新進の陶芸家として売り出しており全国的に名を知られるようになっていたのだが,益子の人達はそんなことは知らなかった。ぽつぽつとそんな評判が入ってくるようになっても信用しなかった。そんな偉い人なら大きな麦わら帽子をかぶり,モンペをはき,草履などで歩き廻るはずはないというのである。そのうちに東京からえらい人達が濱田氏を尋ねて来るようになり,知事さんも来るようになった。当時 利王 垠殿下(李 垠,り ぎん)が宇都宮の旅団長をしており,妃殿下が焼物をされるというので濱田氏は招かれて宇都宮の宮廷に出稽古することになった。宮様の先生をするようなら よほど偉い人なのだろうと,とんだところから信用をかち得たという話もある…」。韓国併合は1910年(図➌)。

(注13)大原家の侍医と親しかった小山富士夫(1900~1975,陶磁器研究者・陶芸家)がたまたま見せた濱田の作品を大原さんも見て,倉敷で個展をやって欲しいという話になった。

(注14)1936年(昭和11年)の国画会展に出品された棟方志功の『大和し美し』が濱田庄司の目に留まったことが 棟方のデビューのきっかけになった。濱田42歳,棟方34歳の時の出会いだった。

(注15)海外渡航歴: 英国,イタリア,フランス,北欧,エジプト,米国,中国,韓国など50回以上にのぼる。

(注16)池田 竧,「民芸の神髄を継承するウォーレン・マッケンジー」,大阪芸術大学紀要『藝術』23,32–38, 2000. リーチが英国での民芸を,浜田は日本の民芸を,そしてマッケンジー(1924~)は米国の民芸を代表するとみなされている。

(注17)「師匠はない方がいい。ぼくも師匠はない。自分のやりたいことがやれる。それが個性だ。河井寛次郎,バーナード・リーチらと友達になって今の自分になった。師匠に三年ついて習えば,師匠から脱皮するには六年はかかる」とも言っている。『濱田庄司七十七碗譜』,日本民藝館,1972。

(注18)東京工業大学 博物館,「陶器コレクション最近の話題: ㈱日立ソリューションズから濱田庄司らの陶器作品が寄贈されました」,蔵前ジャーナルNo. 1042, 52–53, 2014年春号。

(注19)東京工業大学 博物館,「東工大Pottery Camp 2013実施報告書」,2014年10月。

(注20)横堀 聡,NHK 鑑賞マニュアル 美の壺|file 200「益子焼」(2011年2月11日放送)。

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➒ワグネルの帰国に際しての記念撮影(1890年,明治23)。出典:ワグネル先生追懐集(1938年,昭和13,故ワグネル博士記念事業会)。

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濱田庄司
柿釉赤絵丸紋 徳利(14.0 × 10.0 cm)
寄贈: 日立ソリューションズ

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濱田晋作
鉄釉赤絵皿(36.0 × 6.5 cm)
寄贈: 日立ソリューションズ

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濱田庄司
柿釉抜絵花生(20.0 × 10.3 cm)
寄贈: 日立ソリューションズ

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濱田庄司
塩釉流描皿(24.5 × 4.5 cm)
寄贈: 日立ソリューションズ

2014年10月(初版)
2021年4月(web版)
(発行) 東京工業大学 博物館 資史料館部門


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