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社会人アカデミーのルーツを辿る

日本で最初の官立の夜間学校が設立されたのが今から117年前の明治32年(1899)。卒業式には文部大臣の祝辞があった。この夜学こそが本学の社会人アカデミーの源流だ。浅草蔵前の地で灯された夜学の火は,麻布三の橋を経て,田町に引き継がれ,社会人教育の先駆けとなってきた。

大隈重信内閣の時に,大隈と親交のあった手島(てじま)精一は大隈を説得し,閣議にまで特別に出席させてもらい,工業補習学校の設立にこぎつけた(1899,明治32)。

日本の将来のためには,実践的な工業教育の普及が欠かせないと考えていた手島は,本学の前身である東京職工学校(1881,明治14,後に世間受けのいい東京工業学校に改称)を設立し,その管理下に工業教員養成所を設置することにより工業教育体制を整えた(1894,明治27)。これに加え,すでに現場で働いている工員の力量向上も重要との思いから,上記のように夜間の工業補習学校を附設することにしたのだ。

こうして官立最初の夜間学校が設置され,定員の5倍をも超える入学希望者が殺到する時代を経て,同種の学校が多数存立するに至り,模範学校としての当初の社会的使命を終え,110年を経た2009年に社会人教育院(2016年に社会人アカデミーと改称)へと発展的に解消された。

夜学といえども勢いのあった頃は,文部大臣が卒業式に列席していた。夕日に見守られながら教室に向かうという究極のワークライフバランスを支えたのは何だったのだろうかと考えながら,「工業補習学校」から「社会人アカデミー」に至る道を1枚の図(➎)にまとめてみた。手島精一の渡米を起点に,その道のりを辿って(たどって)みよう。

手島精一と東京職工学校

手島精一(1850~1918,図➊)(注1)座像やワグネル(Wagener, 1831~1892,図➋)(注2)記念碑の前で写真を撮った人も多いだろう。2人とも工業教育の重要性を説き,政府に働きかけて,本学の前身である「東京職工学校」の設立に大きく貢献した。本学の創設者として,今も ありし日の姿をキャンパスにとどめ,私たちの仕事ぶりを見守っている。

20歳の時に,手島は上総(かずさ、千葉県)の菊間藩から学費を借りて米国に私費留学し(1870),フィラデルフィアの牧師(兼)中学教師の家に下宿させてもらいながら,同じ中学に通って語学力を磨いた。

翌年,ラファイエット大学(Lafayette College)で建築と物理学の勉強をすることになり,張り切っていたところに日本から「廃藩置県」(1871.8.29)のニュースが届き,藩からの送金が途絶えた。

窮地に陥っていた時に,手島は新聞で,岩倉使節団(注3)がワシントンを訪れ(1872.2.29),その後は班に分かれて各地を視察することを知った(図➌)。使節団の一行とうまく面会することが出来,話がはずんだ。一行には通訳が1人ついていたが,それでは足りず困っていた。そこへ,思いがけず,現地仕込みの英語を話す手島が現れた。願ってもないチャンス到来とばかりに,一行は手島に随行して通訳をするよう頼んだ。経済的理由から留学生活を継続するめどが立っていなかったので,手島はこの申し出を受諾し,ボルチモア・リッチモンド・ピッツバーグなどの主要都市を歴訪し,官庁・公共施設や工場などを視察した。その後,使節団はニューヨークに集合し(1872.7.30),渡英のためにボストンに向かったが,その際に,手島は,引き続き通訳をするように懇請された。こうして,英国にも同行することになった(1872.8.6)。政府関係者からは「将来,国費留学生として勉学の機会を得られるように取り計らうから」とまで言われたようだ。

リバプール経由でロンドンに到着(1872.8.17)した一行は,英国に4ヶ月滞在した。この間に,手島は英国陸軍の最新兵器や海軍の艦船を見て軍事力の凄さに圧倒されるとともに,グラスゴー・マンチェスター・バーミンガムなどの工業都市では,近代的な産業による富国の重要性を強く印象付けられた。暮れも迫った1872年12月16日に,使節団はロンドンをたちパリに向かった。

通訳随行の任を解かれた手島は英国に残り,大学入学を目指したが異国の外来者には門戸は固く,しばらく独学を続けるしかなかった。幸い,使節団の好意で,農業や鉄道事情の調査,翻訳,商工行政の資料収集などの依頼があり,しばらくは最低限の生活を続けることが出来た。

しかし,日本での征韓論政変(1873)やヨーロッパでの政情不安・英国の不況の影響で,しだいに黒パンをかじる貧乏生活も限界となり,「いったん帰国し,再起をはかろう」と決心せざるを得なくなった(1874年の暮れ,24歳)。

日本で1875年(明治8)の新春を迎えた手島は,新聞等に 読み物や論文を執筆し,国家・民族の発展にとって工業基盤の育成が急務であること,真の近代工業振興には一般の手工業者に最新の学理や生産技術を授けることも重要だと力説した。本人にとっては,米欧の滞在で得たものは とても満足できるものではなかったが,我が国の近代化にとっては実り多いものだったと言えよう。

その年の8月に,手島は東京開成学校(東京大学の前身)の監事に任じられ,この学校内に設置されて間もない「製作学教場」の面倒を見ることになった。ここで手島が出会ったのが,ドイツ人のゴットフリート・ワグネル(注2)で,両者の出会いが本学及び日本の工業教育の礎(いしずえ)となった。

製作学教場は,工業技術教育(現場技術者およびその指導者育成のため中等程度の実用的な技術教育)の場として,ワグネルが文部省に建議して作られたものだったが(1874),東京開成学校が(旧)東京大学に昇格する際に,高等学術を教える大学にそぐわないとして,わずか3年で廃止されてしまった(1877)。

そこで,ワグネルと手島が中心となって政府に働きかけ,新しく設置することに成功したのが「東京職工学校」(本学の前身,1881)だ。この意味では,わが国における最初の工業教育機関として発足した東京職工学校は,製作学教場の後継だったともいえる。(注4)

東京職工学校は,浅草蔵前(図➍)にあった書籍館「浅草文庫」の跡地に設置された。ここは江戸幕府の米蔵があったところで,八番米蔵を利用して浅草文庫が開設されていたが,それが 上野公園に新築された博物館内に移転した跡地を譲り受けたものだ。

初代校長正木退蔵(吉田松陰の弟子)の時代は思うように生徒が集まらず苦戦を強いられたが,2代目の手島精一校長(40歳)の時に,評判の悪かった前時代的な職工というイメージを払拭するために,名称を東京工業学校に変えたり,推薦入試を導入したりして安定軌道に乗せることに成功し,工業教育の指導的機関へと発展した。指導者の養成を目的とした「工業教員養成所」の設置にもこぎつけた(図➎)。

話は少し戻るが,アメリカ独立百年の記念すべき年(1876)に,フィラデルフィアで開催された万国博覧会に日本も招待され参加した。フィラデルフィアといえば手島だろうということで,手島は日本政府代表に随行することになり,志半ばで去らざるを得なかった地を4年ぶりに再訪した。博覧会では日本のソロバンが好評を博したそうだが,何と言っても,欧米各国の産業製品には目を奪われるものが多かった。2年後(1878)にはパリ万博も視察し,「科学技術の振興のためには,急いで国民工業教育を普及させることが肝要だ」と決意を新たにした。

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➊手島精一の銅像と➋ワグネルの記念碑。両者とも日本の工業教育の普及に尽力し,本学及び工業補習学校(附高-専攻科と社会人アカデミーの前身)の設立に貢献した。

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➌岩倉使節団の行程。横浜(発1871.12.23→1872.1.15着)サンフランシスコ・・・ボストン(発1872.8.6→1872.8.16着)リバプール・・・ロンドン(発1872.12.16→同日着)パリ・・・ヨーロッパ諸国・・・(→1873.9.13着)横浜。フィラデルフィアに私費留学していた手島精一は,使節団に面会を求め,米国東海岸と英国の視察に通訳として随行した。

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➍ 蔵前にあった本学の前身校の敷地(1923年〔大正12〕の関東大震災で焼失)。本体は大岡山に移転し大学に昇格したが,工業補習学校は三田の小学校で仮住まいをした後に,麻布の三の橋に移転した(1926,大正15年)。1:正門,2:本校舎,3:工業補習学校,4:徒弟学校(本シリーズ「とっておきメモ帳3」参照),5:東京高等商業学校(一橋大学の前身)の所有地,6:専売局煙草(たばこ)工場(校舎の北東側の広い敷地に赤レンガの建物が並び,高い煙突3本が目印となっていた),7:隅田川。

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➎ 本学における社会人教育の変遷(概要)。社会人教育の先駆けとなった工業補習学校(1899〔明治32〕,蔵前)から社会人アカデミー(2016〔平成28〕,田町)までの流れを中央部に示す。上部:親組織である東京工業大学とその前身。下部:一時的に経営母体となった財団法人(1921〔大正10〕~1946〔昭和21〕の期間は協調会;1946〔昭和21〕~1947〔昭和22〕の期間は中央労働学園;1947〔昭和22〕~1951〔昭和26〕の期間は手島工業教育資金団)。


日本の将来を見越して手島が打った第2の手

工業補習学校(夜間)の創設

これまで見てきたように,現場技術者とその指導者を育成し社会に送り出す体制は ほぼ整ったが,当時は急いで生産技術の近代化を図る必要があり,そのためには,既に現場で働いている職工の技能向上も急務となっていた。そこで本稿冒頭の場面となったわけだが,手島は閣議に乗り込んで夜間の「工業補習学校」の必要性を訴え,閣議決定を取りつけた。この夜学は,組織としては,東京工業学校の管理下にあった工業教員養成所の附属となった(1899,明治32,正式名称:東京工業学校管理工業教員養成所附属工業補習学校)(図➎)。

工業補習学校は,金工科と木工科の2つのコース(各20名前後)でスタートし,週3回の夜間授業,授業料は不徴収,学用品は貸与,修業年限は2年間だった(注5)。

しかし生徒の学力のバラツキが大き過ぎて,学年制を維持するのが難しく,3~4年目(1902,明治35)には,希望の科目を自由に選んで履修する「随意科目制」が導入され,親組織ともいうべき東京高等工業学校(東京工業学校の後身)の教授陣を総動員する形で,建築・機械・化学・電気系の科目が多数用意された(注6)。

この体制が10年ほど続いたところで,再び学科制が導入され(1913,大正2),随意科目制と併設する形で,機械科と建築科が置かれた(1919年には応用化学科が開設;随意科目制は1921年〔大正10〕に廃止)。入学試験によって生徒を選抜し,学力を揃えた上で教育する方が効果的でメリットが大きいと考えられたのだ。

“高等工業”の大学昇格の余波

“協調会”の傘下へ

夜学とはいえ,超一流の教授陣を抱え,卒業式には文部大臣の祝辞があり,修了者名簿が官報に載るというユニークさで存在感を示し,安定軌道に乗ったかに見えた工業補習学校だったが,親(東京高等工業学校 =東京高工 or 高等工業)の都合で廃校の危機に直面した。

高等工業の大学昇格話が進んでいたが,文部省は,他の専門学校の昇格運動を刺激しないように,「昇格は高等工業の廃止を意味する」という立場を堅持し,「附属の工業教員養成所や工業補習学校は廃止,予科や専門部は作らず,教員も退職扱いにする」とし,東京工業大学という新しい大学を創設するという立場を譲らなかったようだ(注7)。

高等工業及び附設工業教員養成所の教員に関しては,1917年(大正6)から高等工業の阪田貞一校長を中心に開設準備が進められていた横浜高等工業学校(1920開設;横浜国立大学工学部の前身)及び附設の工業教員養成所(1929,昭和4)がある程度の受け皿になったが,組織としては文部省の思惑通り廃止された。工業補習学校に関しても存続が危ぶまれた。

丁度この頃,財団法人である協調会が学校経営にも乗り出そうとしていた。小学校補習教育程度の学校を東京の工業地帯に設立し,協調会の趣旨宣伝をしようと計画していたのだ。

協調会は,米騒動後の労働運動の高まりを受けて,資本家と労働者の協調を目的として,政府・財界の協力のもとに渋沢栄一(注8)(1840~1931)らが1919年〔大正8〕に設立したもので,労使協調のための調査研究や社会事業,労働者教育など幅広い事業を行っていた。

手島精一の形見ともいうべき蔵前の工業補習学校が窮地に追い込まれていることを知った協調会は,参事役の北爪子誠(1883~1935)を文部省との交渉にあたらせ,移管してもらうことに成功した。

かくして官立だった工業補習学校は私立となり,名称も「蔵前工業専修学校」に変更されたが,校舎・教育内容・教授陣については変わることなく引き継がれた(1921,大正10,図➎)。開校式には渋沢が出席し,コラム欄に示すように,「…工業に従事する人々の教育について力を尽くしたい…,先輩の苦心に感謝せねばならぬ…」と挨拶した。

関東大震災(1923.9.1,大正12)で蔵前を焼け出された後,芝区三田四国町の尋常小学校を仮校舎として授業を再開した。

1926年〔大正15〕には,麻布の三の橋(図➏)に新しい校舎が完成したのを契機に,「東京工業専修学校」と改称した。

1940年〔昭和15〕には東京高等工学院と改称し(図➎),名実ともに後続の類似学校の模範的存在となった。当時の授業の回想録(注9)があるので一部引用しておこう:

「先生方の講義の仕方もさまざまで,ノートを読みあげてすべて筆記させる先生,生徒が聞こうと聞くまいとお構いなく教科書を淡々と読んで行く先生,1年間で教科書の始めの10~20ページ位しか進まない懇切丁寧な先生,汗水流して熱心に講義される若い先生とまさに十人十色であった。高等工業部2年の時は,日曜日に大岡山の東京工業大学の内燃機関実験室,金属材料実験室などを借りて実験や実習を行った」。

当時は留学生もいて,来日時は83 kgだった体重が卒業する時には60 kgに減っていたそうだ。(注10)

太平洋戦争が始まると,工業教育は最重要視され,国民の関心と期待も高まった。この頃の生徒数は,夜学にもかかわらず1学年約350名(機械240,電気70,建築40)に上ったが,敗戦によって苦しい状況に追い込まれることになった。

GHQによる戦後処理の過程で,協調会が解散させられ(1946,昭和21),再び経営母体を失ったのだ。しかし今回も,協調会の全資産を引き継ぐ形で,新しい労働問題研究団体(中央労働学園)の設立が認められ,その傘下に入ることになった(1946,昭和21)。

安堵したのも束の間,1年もしないうちに,中央労働学園は文系のみを残し,新しく労働専門学校を開設することを理由に,理系である東京高等工学院の経営を放棄し,三の橋校舎(図➏)の明け渡しまで要求してきた。憤慨する者も少なくなかったが,流れに抗しがたく,3度目の廃校の危機に見舞われた。この窮地を救ったのが東京工業大学内に置かれていた㈶手島工業教育資金団で,一時的に東京高等工学院の受け皿となり(1947~1951),田町キャンパスの附属工業高等学校の専攻科として再出発する道を用意してくれたのだ(1951,昭和26)。

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➏震災後の移転先(麻布,三の橋)と専攻科がスタートした田町キャンパス付近の航空写真(1947年〔昭和22〕8月1日米軍撮影,国土地理院)。
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1


再び本学に復帰

しかし,夜間短大化は成らず

1899年(明治32)に創設された工業補習学校は,約半世紀にも及ぶ幾多の変遷を経て,1951年(昭和26),和田小六学長の時にようやく本来の古巣に戻ることになったが,この間の社会情勢の変化や戦後の学制改革とそれに伴う大学・短大の新設ラッシュ(図➐)を考えると,附属高校の専攻科として,これまで同様に修了証のみで何ら公的な資格が得られない夜学を続けることには将来的な展望が見いだせないとして,本学(東京工業大学)の ⑴夜間部・⑵夜間短期大学・⑶夜間正規大学・⑷夜間大学院に昇格させる構想が真剣に検討され,大学と専攻科の同窓会組織である「(新生)蔵前修工会」(会長:石津三次郎,1885~1974)が一丸となって,文部省への働きかけをしたが,残念ながら実現しなかった。工業短期大学(夜間)への昇格は引き続き最大の懸案事項として,その後の大学執行部や蔵前修工会関係者に引き継がれ,一時は概算要求に盛り込まれたが(注11),陽の目を見ることはなかった。

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➐大学等の設置数の変遷。新制大学は1948年〔昭和23〕(私立11校・公立1校,計12校)からスタートし,翌1949年〔昭和24〕には多くの国公私立大が加わり178校となった。短期大学は1950年〔昭和25〕(公立17校・私立132校,計149校)から認可・設置された。職業能力の育成を目的として設置されていた各種学校は,1976年〔昭和51〕以降,専修学校(893校)としての設置が認められ,急速に数を増やした。最近では,就職に有利になるようにと,“大学”と“専修学校”に同時に通うダブルスクールも見られるようになっている。


百年史の編纂と史資料の寄贈

しかし,この昇格運動を通して同窓会組織がしっかりしたものになり,活発な活動が今日まで続く基盤が出来たことは確かだ。昇格運動を生み出した愛校心とエネルギーが世代を超えて引き継がれ,400頁近い「蔵前修工会百年史」(注12)の編纂につながったといえよう(2002年発行)。

同窓会の小林満事務長(期間:1986.8~1990.8)が根気よく収集・整理した膨大な資料が残されており,それが本学の資史料館に寄贈された(2015)。本稿執筆の動機は,寄贈資料を紹介するためでもあるが,何よりも,それらの資料を後世に残したいという同窓会の現役員の方々(注13)の情熱と連帯感と誇りに心を動かされたからだ。夜学に通うほどだから,その人たちは 生来 頑張り屋だった。そういう人たちが蔵前精神の薫陶を受けて,現役時代はもちろんのこと,定年後も生き生きと社会貢献をしている姿を見聞きするにつけ,ペンを執りたいという思いに駆られた。

百年史や資料からは,(i)“工業補習学校→工業専修学校→高等工学院→専攻科”が果たした役割と(ii)昼間の仕事を終えてから教室に向かう人達の向学心と辛苦,そして(iii)東工大という特別な教授陣から受ける知的触発と大学の実験室で実習が出来るという得難い経験が大きな魅力だったことを窺い(うかがい)知ることが出来る。

明治から大正にかけての日本の近代化と発展に貢献した手島精一,ワグネル(注2),渋沢栄一(注8)が生みの親・育ての親というのも,ここで学んだ人たちを発奮させたに違いない。当時を,「高校時代の学生服から背広姿になり,胸には赤い燕(つばめ)マークのバッジをつけて得意だった」と振り返る卒業生も少なくない。(注14)

専攻科入学希望者の減少

資格を付与できる多数の大学Ⅱ部(夜間部)や専修学校の登場により(図➐),向学心と根性に依存する専攻科(修了証のみで資格は取れなかった)の魅力と社会的役割は徐々に薄らいでいった。優れた教育内容と駅近という立地条件だけでは,多くの入学希望者を集め続けることは難しい時代になったのだ。

4学科(機械科・電気科・建築科・工業化学科)合わせて100名近い卒業生を送り出していた昭和40年頃をピークに,入学希望者は急速に減り,2008年〔平成20〕には最盛期の1割にも満たなくなってしまった。学科によっては生徒が数人あるいは2~3人という年も珍しくなくなったのだ。

この衰退の道はかねてから予測されており,それゆえに熱心な短期大学昇格運動が続いた。他大学の例を見ると,例えば,電気通信大学の場合は1953年〔昭和28〕に短期大学部を設置している(但し,1988年〔昭和63〕の夜間主コースの設置により廃止)。(i)電通大は逓信(ていしん)省の無線電信講習所が前身となっており,特別な力が働いたのかも知れないし,(ii)主要な国立大学では,短期大学部(医療系の短期大学部を除く)を有しないことを考えると,政府の文教政策と相いれず,専攻科の短期大学昇格は構想で終わらざるを得なかったのかも知れない。この問題については,教育史専門家による分析を待つことにしよう。

社会人教育院の発足

附属高校の改革とそれに伴う名称変更が終わったところで,専攻科の将来を検討するためのワーキンググループ(WG)が運営委員会の下に置かれ,検討が始まった(2006,平成18)。

専攻科は,もはや社会のニーズに合っていない状況を考えると,改組による存続は難しく,廃止して新しい形態を模索する方向で議論が進んだ。その結果,本学で行われてきた,あるいは最近スタートした,社会人教育プログラムを統括する形で,社会人教育院(院長:鈴木正昭)を設置することになった(2009,平成21,図➑)。専攻科の継承事業として「理工学基礎プログラム」(2級建築士コース)が用意されたが,受講生が集まらず,2年で廃止された。

他の講座(製造中核人材育成講座(注15)・キャリアアップMOT(注16)プログラム・理工系一般プログラム(注17))は,いずれも社会のニーズに応じた専門性の高い大学院レベルの講座であり,全体で200~300名の受講者がある。

大学全体の教育改革・組織改革に伴って,2016年度〔平成28〕から,“新生”東京工業大学がスタートした。この改革を受けて,社会人教育院は社会人アカデミー(アカデミー長:飯島淳一,図➑)となった。「教育院」というとニュアンス的には少し上から目線だったが,「アカデミー」ならば,カタカナ言葉であることを差し引いても,向学心さえあれば自然に足が向きそうだ。

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➑東京工業大学における社会人教育の変遷(専攻科以降)。社会人教育に関わる附属高校の専攻科と学内の他の組織やプログラムを統合する形で社会人教育院(2009,平成21年)が設置され,2016〔平成28〕年に社会人アカデミーと改称された。


社会人アカデミーの使命

結びに,期待を込めて,社会人アカデミーの使命をまとめておこう:大学等を卒業してから社会の第一線で活躍してきた経験豊かな人たちに,再び学ぶ機会を提供することにより,(1)学生時代の古い知識の更新,(2)新たな分野への習熟,(3)既得スキルのブラッシュアップと新技術の修得,そして(4)構想を練り戦略を立案するための方法論の学習などの手伝いをしていくことになる。専門を追求しつつ,幅広い視野で物事を考えられるようになりたいと望む社会人が多く集い,そういう人たちのスキルアップを通して,日本社会の質向上に貢献して欲しいものだ。

本学の社会人アカデミーは,駅近かつNon-degree(Certificate program)という点で,元祖の工業補習学校の特徴を継承している。大きく違う点は,周りに競争相手の大学などがたくさんあって,皆似たようなメニューを取り揃えている点だ。資格付与ができないNon-degreeは,本稿で見てきたように,精神的には「艱難(かんなん)汝(なんじ)を玉にす」に通じるところがあり,教育の本質ではあるが,生存競争となると大きな弱点になる。これを克服するためには,講座内容に加え,母体である本学の社会的ステータス(名声,Reputation)の向上が欠かせないだろう。さらに,近年目覚ましい普及をとげつつある公開オンライン講座(注18)は「ネットが教育を変える」とまで言われる勢いで,競争環境は一段と厳しくなっている。1899年(明治32)に灯された夜学の火が,重厚長大,軽薄短小,ナノテクの時代を経て,ICT社会にも確実に受け継がれていくことを期待したい。


コラム 渋沢栄一(81歳) 蔵前工業専修学校の開校式での演説

1921年(大正10年)5月31日(火)

今日予は財団法人協調会を代表して,本会が附属工業補修学校に関係を有するに至ったにつき,一言述ぶる光栄を有するものである。

協調会の事業は資本と労働との調和を図るは勿論,社会政策の調査実行等あらゆる方面に関係して居るが,工業に従事する人々の教育について力を尽くしたいと思ふのである。今日の日本は農業や商業の方面計りの発達ではいかない,大に工業の進歩を図らなければならぬ。而して近時工業の進歩は著しく倒底昔日の比でない,今日の発達は諸君の祖父母や,父の時代に政治家や,事業家が心配して努力した結果に外ならず,今日偶然に生まれ来たものと思はないで,昔を偲びて先輩の苦心を感謝せねばならぬ。

父母の保護を受け,哺育の賜に依りて段々知徳進みて,一人前の成育を為すと同じく世事皆左様であることは三尺の童子も知る処の事実である。…[中略]…

世間やゝもすれば資本労使は相対抗して両者の階級闘争せんとする気勢を示すが,此れは双方とも不利の事である。天下は資本家労働者のみの天下ではない,社会構成の中心は多数は公衆である,資本も社会の為に存し労働も社会の為に存する,社会共同の福祉を離れて資本も労働も其の用を為さぬ。其の両者の専恣を戒め,其の方向を誤らしめぬやうに策するのが,協調会の趣旨である。

世間では協調は温情主義だというが,私は交温主義で行きたい。強者が弱者に恩恵を施すという意味に誤解さるゝ,事実又そんな気を以って労働者に対するものではない。交温主義即ち忠恕敬愛の念を以って交を温め合ふのである。事に対し資本家も労働者も互いに忠実是れに当たって行く事が必要だと思ふ。

コラム1fig1

渋沢史料館所蔵

「渋沢栄一伝記資料」第44巻,pp. 513–515,1962
写真提供:渋沢史料館


注1)安達龍作,「工業教育の慈父 手島精一伝」,手島工業教育資金団,1981(昭和56年)。三好信浩,「手島精一と日本工業教育発達史—産業教育人物史研究Ⅰ」,風間書房,2000(平成11年)。

(注2)ワグネル(Gottfried Wagener,1831.7.5~1892.11.8):ドイツ出身のお雇い外国人。母国語での発音はゴトフリート・ヴァーゲナー〔gɔtfriːt vaːgɛnɐ〕だが,日本ではワグネルと記される。事業参加のため来日し,その後政府に雇われためずらしい経緯を持つ。略歴は以下のとおり(年齢は1歳程度前後する可能性あり):

ゲッチンゲン大学の数学者ガウスのもとで博士号を取得し(1852,21歳),パリに移住。語学・数学教師や翻訳官をしながら多言語をマスター。デュマの化学講演を聴いて化学を習得

◆スイスで工業学校の教師に(29歳)

◆義兄と建設事業を始めるが失敗。続いてパリで弟と化学工場を始めたがこれも失敗

◆アメリカの企業が長崎に工場を作るにあたり,日本にされたが(1868,36歳),日本ではまだ石鹸が普及しておらず事業は失敗

◆佐賀藩に雇われ,約5か月間に渡り,有田町で窯業の技術指導にあり,安価なコバルト顔料の使用や薪不足を解消するための石炭窯を築いた(39歳)。廃藩置県(1871)で雇用解除

◆大学南校(東大の前身)のドイツ語教師(1870),東校(東大医が部の前身)の自然科学系教師(1872,41歳)

◆ウィーン万国博顧問として渡欧(1873),帰国後,東京博物館創立の建議

◆工業技術教育の場として開成学校(南校の後身)に附設された製作学教場の教師

◆フィラデルフィア万国博覧会の日本委員(1876,45歳,手島精一も参加

◆製作学教場の廃止(1877)に伴い失職,1年後に京都府に雇われ,京都舎密局での化学工芸の指導及び医学校(現・京都府立医科大学)での理化学の授業を担当(1878~1881)

◆官業の払い下げの一環としての舎密局の売却と雇用期間満了に伴い離職(1881,50歳)

◆同年,東京大学理学部の製造化学の教師

◆1884年11月からは東京職工学校(本学の前身)で窯業学の教師となり(53歳)

◆1886年〔明治19〕,東京職工学校で陶器工科が独立し,その主任教授に就任し(54歳),61歳で亡くなるまで務めた。ワグネルは一生独身で通した;しかし,生活を共にした日本人女性がおり,娘さんもあったと伝えられるが詳細は分っていない。

❤ワグネルの業績は,日本化学会の化学遺産に認定されている:認定化学遺産 第038号『日本の近代的陶磁器産業の発展に貢献したG. ワグネル関係資料』; 道家達將,“Dr. ワグネルの一生と釉下彩陶器「旭焼」の創造”,化学と工業67, 556–558, July 2016。

(注3)アジア歴史資料センター,“インターネット特別展「公文書にみる岩倉使節団—智識ヲ世界ニ求メ」”。http://www.jacar.go.jp/iwakura/sisetudan/main.html

(注4)文部省 学制百年史編集委員会,「学制百年史」,第二章 近代教育制度の確立と整備(明治十九年~大正五年),第六節 産業教育,一 産業教育の発足,1981(昭和56)。http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317638.htm

(注5)官報に規則(「工業教員養成所附属工業補習学校規則」,第4736号,243頁,1899〔明治32〕年4月19日)や卒業式での校長の式辞(「手島校長演説大意」,第5846号,582~583頁,1902〔明治35〕年12月26日)が載っている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2949149/6?viewMode=

(注6)蔵前修工会百年史,p 61–63 & 202, 2002(平成14年)。

(注7)東京工業大学六十年史,p. 606, 1941(昭和15年)。

(注8)渋沢栄一(1840~1931):幕末~大正初期にかけて活躍した日本の武士(尊王攘夷運動,幕臣)・官僚(大蔵省)・実業家。パリ万国博使節団に加わり,ヨーロッパ各地を訪問。この時の見聞(近代的社会経済の諸制度や産業施設)が後の活動の基盤となった。第一国立銀行,東京証券取引所,我が国初の私鉄日本鉄道会社,王子製紙など多種多様な企業の設立・経営に関わり,「日本資本主義の父」といわれる。理化学研究所の創設者でもある。持論は「論語とソロバンの両立」で,正しい道徳の富でなければ,その富を永続することは出来ないと説いた。

(注9)畑 政歳(1943〔昭和18〕,高等工業部,機械科卒),「夜学六年の回想」,蔵前修工会百年史,p 120–121, 2002.

(注10)胡 均発(1942〔昭和17〕,高等工業部,機械科卒),「一念発起来日して」,蔵前修工会百年史,p 116–118, 2002.

(注11)1969年〔昭和44〕に提出された1970年度概算要求。時期的には専攻科への志願者の減少傾向が顕著になった頃で,大学紛争とも重なる。当時の学長は加藤六美(1911~2000),蔵前修工会の事務長は香山常雄(1904~1988;蔵前工業専修学校の機械科〔1927年,昭和2〕,東京工業専修学校の電気科〔1932,昭和7〕を卒業後,同校の事務員・助教諭として勤め,1967年〔昭和42〕に定年退職。引き続き蔵前修工会の事務長となり,1982年〔昭和57〕まで勤めた;蔵前修工会育ての親)。

(注12)蔵前修工会百年史編纂委員会:正木道行(昭和12高電,委員長),石塚 浩(昭和19高機,編集長),小林 満(昭和27高機,年表担当),岡 寛(昭和25高機),重久長生(昭和34電気),山本一男(昭和40建築),三竹茂夫(昭和44工化),清水一昭(昭和47工化),島田義昭(昭和60電気)。

(注13)蔵前修工会の現役員(2016年,〔平成28〕):勝谷尚武(会長,昭38建),石野康廣(副会長,昭31機),平山芳昭(副会長,昭和39電),清水一昭(副会長,昭47工化),山本一男(蔵前修工会々報編集委員長,昭40建),宮崎功(理事,昭45建),石塚浩(理事,昭19機),遠田修(理事,昭31電),遠山忠吾(理事,昭36建),名倉道夫(理事,昭55電),坪井祐介(理事,昭60電)。

(注14)重久長生(1959〔昭和34〕,専攻科,電気卒),「専攻科学生の誇り」,蔵前修工会百年史,p 130–132, 2002.

(注15)井上裕嗣,「大田区中小製造業におけるスーパーマイスターの育成」,精密工学会誌72, 9–12, 2006。2007年(平成19)に「機械加工業スーパーマイスター・プログラム」,2008年(平成20)に「金属熱処理スーパーマイスター・プログラム」(世話人:松尾孝教授,現名誉教授)が開講された。

(注16)MOT (Management of Technology): 技術を経営の立場からマネージすること。新技術の創出などへの投資や知財・特許戦略などに力点が置かれる。

(注17)理工系一般プログラムには以下の4コースがある:「環境科学」コース,「環境工学 リサイクル」コース,「環境工学 エネルギー」コース,「食の安全と安心」コース。田町キャンパスCICで開催されるプログラムは,平日夜間と土曜日の開講となっている。

(注18)例えばKhan Academy(ビル ゲイツ財団やGoogleが支援している):https://www.khanacademy.org


2016年9月(初版)
2021年4月(web版)
(発行) 東京工業大学 博物館 資史料館部門

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