楽譜物語: 蘇った学生歌「春らんまん」
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楽譜物語: 蘇った学生歌「春らんまん」

忘れ去られそうになっていた学生歌の楽譜が見つかった

一人の来客の依頼から,忘れ去られそうになっている学生歌があることが分り,その楽譜探しが始まった。教務部や現役の合唱団員など関係者に聞いても,その存在すら知らないという返事で,「幻の学生歌」として語り継ぐしかなさそうだと諦めかけた時に,救いの手を差しのべてくれたのが本学の合唱団シュヴァルベンコール(Schwalben Chor)のOB会だった。この“捜索”を通して,ノコギリを楽器にしてあらゆる曲目を奏でるというSaw musicianに出会ったので,合わせて紹介したい。

ことの起こり

2014年4月,まさしく春爛漫(らんまん)の頃に,一人の礼儀正しい客人が「道家先生は いらっしゃいますか?」といって博物館を訪ねてきた。これが,幻として消えかかっていた「旧学生歌」の楽譜探しの始まりだった。本学には,入学式や学位記授与式(卒業式)で歌われる「大学歌」の他に,応援歌の性格を持った学生歌「桜花散り敷く丘」があり,それぞれ「学生便覧」の付録1及び2として全学生に周知されている。この他に,もう一つ学生歌があるはずなので調べて欲しいというのだ。

話しは36年前に遡る。1978年4月7日(金)~8日(土)にかけて新入生セミナー(1泊2日のバスゼミ,1972年以来で6回目)が開かれた。2類は国民宿舎「箱根太陽山荘」に出かけた。当時は,大学生は成人扱いだったので,夜はビールを軽く飲みながらの懇親会となった。そんな席で,教官の一人が挨拶代わりにと歌を披露した。大学の応援歌だという。これから始まる学生生活に対する励ましと学生への期待が込められていて心に沁みる いい歌だった。学生は皆,憧れの東工大に入学できた達成感と高揚感を喚起され,その歌に酔いしれたそうだ。しかし,その後は,世の常で,忙しさにかまけて歌のことは いつの間にか記憶のかなたへと追いやられていった。この時の2類新入生の一人が今回の来訪者で,本学で博士号を取り3年間助手をした後に,名古屋大学で教育研究に従事し,25年ぶりに本学に戻ってきたのが昨年(2013)の6月。そして,今年の春を迎えた。本館前に咲き誇る桜が,昔懐かしいバスゼミの記憶を呼び覚まし,気づいてみると おぼろげながらも 応援歌の一部を自然に口ずさんでいた。

「本物の教育は心の琴線に触れる。この歌がそう語ってくれるように,私も東工大に在職中にできるだけ多くの学生の心の琴線に触れ,研究と教育に精進しよう。そのためにも,工大のものつくりの原点を謳う『応援歌』の楽譜を手に入れよう」。自分でも少し探してみたが簡単には見つからなかった。ならば,こういうことは年配の人に聞くのが定石というわけで,「あの優しく親切な道家先生(85歳)に訊いてみよう」となった。道家は本学の百年史や130年史の編纂に関わり,博物館を作って本学の歴史資料の整理・展示を手掛けてきており,適任とみなされたのだ。

手掛かりなしで迷宮入りか?

電話が得意な道家は 心当たりのところに(注1)片っ端から電話をかけ始めたが,どれも「聞いたことがありませんね」という返事だった。学生歌ということで,教務部が真剣に調べてくれたが,見つからなかった。混声合唱団コールクライネスの部室にまで出向いて尋ねてみたが,「知りません」の一言で終わってしまった。『そうですか,それは面白いですね。部誌や先輩にあたってみます』という答えを期待していた道家には,淡白すぎる現代学生気質がショックだったようだ。「東工大が社会で評価されるのは,スマートさではなく,しつっこくやってみるという行動力なんだけどなぁー」といたく落胆した。

ホームカミングディー(2014.5.25)の全体会で,道家の姿を見かけて,懐かしくなって声をかけてくれた参加者がいた。機械宇宙システム専攻の山崎敬久(1991生産機械)で,話題が学生歌に及ぶと,「研究室にコールクライネスの団員だった学生がいるので聞いてみましょう」ということになった。残念ながら,ここでも手掛かりは得られず,「コールクライネスの創部50周年記念会が予定されているので,その時に先輩方に聞いてみましょう」と約束して貰ったが,それまで何もしないで待つわけにもいかないので,次の相手に電話をかけ始めた。

作詞者(守友貞雄)が判明

今度の相手は,コールクライネスの顧問をしている吉川邦夫(環境理工学創造専攻・教授,1977応物)で,道家とは長い付き合いがあった(注2)。残念ながら,歌のことは知らないということだったが,親切な対応をしてもらえた:「コールクライネスよりは シュヴァルベンコールの方が歴史的に古いので(注3),その元顧問である石川忠晴先生なら何かご存知かもしれません」。さすがの道家もここで一休み,『楽譜は見つからないかも知れないな』と少し弱気になりながら,同僚(広瀬茂久 特命教授,1970化学)に尋ねた:

「広瀬さんは,すずかけ台 総理工の石川先生を知っていますか?」,

「はい,同じキャンパスでしたし,学部1年生向けの科目『環境安全論』を立ち上げたときの仲間ですから,よく知っていますよ。気さくな先生ですから何を聞いても大丈夫です」

というわけで,石川さんの受話器が鳴った。石川さんはこれまでの話を聞いて,

「私自身はよく知りませんが,シュヴァルベンコールのOB会がありますから,OBの皆さんに聞いてみますよ」

というわけで,OB会会長の阿部康彦(1968建築)に頼んでくれた。阿部さんは,その依頼メールをすぐにOB会の主要メンバーに転送した。

すると先ず,森孝夫(1960建築)から「歌詞も曲もよく覚えているので,採譜して送りましょう」ということで,森さんの手になる楽譜が入手できた。作詞者が守友貞雄(1957機械,80歳)であることも判明した。これで「旧学生歌」が消えてなくなることはないと,ひとまず安心したところに,ビックニュースが飛び込んできた。「作詞者をよく知っているので,当時の楽譜を保存しているだろうから,聞いてみます」というのだ。メールの主は,泉妻秀一(いずのめ ひでいち,1962化工)。不思議なことに,森・泉妻・守友さんの3人は,博物館には馴染の人たちだった。特に博物館の資史料館部門を担当している広瀬にとっては恩人だった。泉妻(いずのめ)さんには,大学院科目「企業社会論」の講師を紹介してもらい,森さんと守友さんには蔵前ゼミの講師を引き受けて貰った(コラム1 & 2)。

そんなわけで,泉妻さんが守友さん宅に電話をかけた。守友家では,貞雄さんが療養中だったこともあり,奥様の喜代子さんと娘さんが中心になって楽譜探しが始まった。「古いものなので探し出すには時間がかかるかも知れません」という返事だったが,意外に早く見つかり,関係者一同,歓声を上げることができた(楽譜は最終頁)。最初に話を持ち込んだ大内さんからは,「さすが博物館ですね」と褒めてもらい,気をよくして本稿を執筆することにした次第だ。

学生歌が作られたいきさつ

戦後,新制大学に移行して5年目の1954年(昭和29)に大学歌と学生歌の歌詞が公募された。当時の「工業大学新聞」(図➊)によれば,大学歌の方はなかなかいいものが見つからなかったようだが(注4),学生歌の応募作の中に秀作(守友さんの作品)があり無事選定作業が済んだ。入選作が発表された掲示板の下に原水爆禁止運動の声明文が貼り出されているのも印象的で,図➋は図らずも,2重の歴史的価値を持つことになった。1954年は,ビキニ環礁で米国の水爆実験が行われ,焼津のマグロはえ縄漁船「第五福竜丸」ほか 多くの日本漁船が被災した年だからだ。作詞者の守友さんの紹介を兼ねて,蔵前ゼミの印象記をコラム2に抄録しておく。

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➊ 入選歌が発表された掲示板の前に立つ守友貞雄(1954年9月)。上の掲示:学生歌入選作,下の掲示:原水爆禁止全学集会の呼びかけ。

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➋ 工業大学新聞,1954年(昭和29)9月20日号。楽譜は同年の11月20日号に掲載された。

仲介者はSaw Musician

泉妻さんは変わった楽器を弾くと聞いて,楽譜の受け取りを兼ねてインタビューさせて貰った。変わった楽器と聞いて博物館学的な興味をそそられたからだ。泉妻さんは1962年に本学の化学工学科を卒業し,帝人に勤め,専務執行役員を経て,東邦レーヨン(株)代表取締役副社長を務めた。定年後は,蔵前工業会の蔵前経営者懇話会 副代表幹事として週に1~2回はTTF(東工大蔵前会館)に顔を出している。泉妻さんは,韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領の就任式(2013.2.25)に招待された。日本からは 僅か7人というから,余程のことがないと実現する話ではない; 7人の中には,麻生副総理も含まれていた。146ヵ国から300人を招待するとなると,どんなに頑張っても一国当たり数人とせざるを得ない。実際,米国ですら8人の枠だった。泉妻さんを強く押してくれたのが,韓国電力公社の社長(趙煥益,チョ・ファンイク)だった。彼との間には共同事業を通して信頼関係ができていた。しかも,泉妻さんの趣味を知っていたので,前夜祭で泉妻さんの出番を作ってくれた。300人の招待客が注目するなか,舞台に上がって大きなカバンから取り出したのが,何と,ノコギリ(西洋ノコギリ)とバイオリンの弓。ノコギリの取っ手部分を膝で挟んで押さえ,左手でノコギリの先端をつかんで軽くS字型にしならせ(図➌),バイオリンの弓を当てて引くと,美しい調べが流れ始めた。曲目は「アリラン」と「韓国国歌」。皆,涙を流さんばかりに喜んでくれたそうだ。ノコギリを楽器として使う時は,単なるSawではなく,Musical sawというそうだ。ノコギリの歯の有無は関係ないようだが,ノコギリ板の振動は単音ゆえ,聴覚障害者でも頭蓋骨の振動としてノコギリ音をとらえることができるので,音楽が楽しめるというメリットがある。

泉妻さんの場合は,奥さんの敦子さんも音楽の才能が有り,子供のころからピアノ,ハモンドオルガンなどの楽器に親しみ,最近ではアイリッシュ ハープも弾きこなせるようになったので,時々,ハープ & ソーと題して2人で舞台に立っているそうだ(図➌)。一枚の楽譜探しが,Saw musicまで引き出し,なかなかエキサイティングな“捕物帖”となった。大学歌と学生歌の変遷をまとめると表1のようになる。表1の作成にあたっては,シュヴァルベンコールOBの遠藤謙二郎(1969電子)さんに世話になった。シュヴァルベンコールとのつながりでは,広瀬と同期で今も歌い続けている指原建司(1970化学)がいるので寄稿を打診したところ,快く引き受けてくれた。博物館 資史料館部門のWeb page(注5)に載せておくので目を通していただければ幸いだ。

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➌ Harp & musical sawを弾く泉妻敦子・秀一夫妻。

作曲家 (木下航二,1925~1999)

学生歌「春らんまん」を作曲した木下航二(図➎)は,東大で東洋哲学を専攻し,母校である都立日比谷高校の教諭になった。本学の学生歌以外にも多くの校歌等を作曲したが,独学で,今に歌い継がれる「原爆を許すまじ」を作曲したことで有名だ。「原爆を許すまじ」は1954年のビキニ水爆実験によって世界的に高まった原水爆禁止運動の一環として作られた曲ゆえ,作曲の時期を考えると,それとほぼ時を同じくして本学の「春らんまん」が作られたことになる。

ビキニ水爆の恐ろしさを世に知らしめ,ラッセル・アインシュタイン宣言,そしてパグウォッシュ会議の設置など原水爆禁止運動が高まるきっかけを作ったという意味で本学は大きな貢献をした。このこともあまり知られていないので,ビキニ水爆実験から60年になる本年10月に博物館・原子炉工学研究所・社会理工学研究科の共催で特別企画展とシンポジウムを開催することになっている。乞う ご来場。

資料の移管・寄贈のお願い (東工大関係者)

本学にも資史料館(博物館 資史料館部門)ができたので,今後は,今回のように歴史的に重要な文書が失われそうになることはないと期待されるが,それも関係者の方々に貴重な文書類を資史料館に移管するという手続きを踏んで頂いて初めて可能となるので,積極的な移管をお願いしたい。

(注1)音楽関係のことならば,先ず 次の人たちに聞けといわれている:横山正明名誉教授(1965制御),高橋幸雄名誉教授(1967応物),鈴木正昭特命教授(1972化工),伊賀健一元学長(1963電気)。このうち,横山・鈴木・伊賀さんに面談ないしは電話で問い合わせた。

(注2)吉川さんと道家の付き合いは,吉川さんが学生の頃からで,そんな親しい関係もあって,百周年記念(1981)に本学の大学歌をレコーディングする計画を進めていた道家はコールクライネスの顧問の吉川さんに相談した。吉川さんは乗り気で,予算のめど等もついたところで,学生部員に歌を頼んだところ,女性陣が他大学なので,百周年記念の歌声としては気が進まないということで計画は取りやめになった。このようにこれまでいろいろと付き合いがあった関係で道家は吉川さんには頼みやすかった。

(注3)管弦楽団は1925年(大正14)に設立され,この管弦楽団(当時は東工大音楽部と呼ばれていた)から1959年(昭和34)に合唱団シュヴァルベンコールが,さらにそこから1963年(昭和38)に混声合唱団コール・クライネスが独立した。シュヴァルベンコールは,最初は男声と混声の2本立てだったが,1962年から男声合唱団となった。いずれも長い歴史と優れた実績を有するが,残念なことに,シュヴァルベンコールは2010年から休部中である。東京工業大学130年史,通史,p. 234; 東京工業大学シュヴァルベンコール50周年記念誌,p. 15–18, 2009。

(注4)東京工業大学百年史(通史),p. 799–780, 1985。大学歌の方は,最終的には外部(三好達治)に依頼することになった。

(注5)指原建司,「私と音楽との出会い」,http://www.cent.titech.ac.jp/Publication_Archives/pg693.html。「大学での出来事が人生の土台になり,いつになるかは各人によって違うが人生の気づきの時は確実に来る。そして,そこから,いろいろな人との新たな結びつきが生まれ深められる」と述べている。

表1. 東京工業大学 大学歌と学生歌の変遷

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1 伊賀健一,「東京工業大学歌―その原譜」,東工大クロニクルNo. 450, p. 17, 2010。高橋幸雄,「大学歌の謎解き」,ibid No. 379, p. 13–15, 2003。「シュヴァルベンコール50周年記念誌」,p. 48–50, 2009。

2 土井晩翠(ばんすい,1871~1952)は詩人・英文学者で男性的な漢詩調の詩風で知られる。「荒城の月」(滝廉太郎 作曲)の作詞者として有名。

3 瀬戸口 藤吉(1868~1941)は海軍軍楽師を務め,「行進曲の父」と称せられた。

4 諸井三郎は本学の一般教育科目音楽の担当教員だった。

5 1931年度(昭和6)に公募された学生歌の歌詞も残されている;作詞者は八杉龍一(当時1年生);東京工業大学百年史(部局史),p. 554–555, 1985。東京工業大学六十年史(p. 946–948)には向岳寮歌の歌詞の記載もある。向岳寮は,本学が蔵前から大岡山に移転したのを契機に今の緑ヶ丘地区に建てられた(1930年〔昭和5〕,175人収容)。1968年に燃え上がった大学紛争の火種ともなった上に,老朽化が進んでいた向岳寮は,1970年(昭和45)6月12日に取り壊された。向岳・南寮は1968年5月2日の火災で焼失していた。古い寮の写真はKuramae Journal No. 995, 26–27, 2006に掲載されている。

6 守友貞雄は当時2年生だった。

7 中村信二郎: 1967年(昭和42)機械工学科卒。父親の中村三郎(ペンネーム:木槿三郎)との合作ゆえ,当初は作詞者が木槿信二郎と記されていた。

8 西村康彦: 1968年(昭和43)応用物理学科卒。吉田明男(1968応用化学科卒)のメモによれば,最終選考のための演奏をシュヴァルベンのメンバーを6チームに分けて講堂で行った。入選作の発表は1965年(昭和40)11月23日の文化祭でなされ,翌年,正式に制定された。「東京工業大学シュヴァルベンコール50周年記念誌」,p. 83–84, 134, 2009。

コラム1

森 孝夫(大成建設を経て,日本ヒューム取締役などを歴任)の横顔

<蔵前ゼミ(第9回,2009.7.17)の印象記からの抜粋>

…森さんは,1937年広島の生まれ。終戦の時は小学2年生で,原爆もよく覚えているそうだ。学生時代は男声合唱団シュワルベンコールで活躍した。社会人になってからは地元で洋光台男声合唱団を組織し,今は団長を務め,名誉指揮者として 時折 タクトを振っている。ドイツに何度も演奏旅行をし,2万人収容の野外劇場の舞台に立って鳥肌の立つ感動を味わったこともある。指揮をする時は楽譜を見ない(譜面台は不要)。楽譜に頼るといつまでたっても楽譜離れができない。それでは聴衆と一体になれないのだ。…

◆人生は自作自演のドラマで,主役である自分から見れば,社長も脇役だそうだ。とはいっても,凡人には そう簡単に 達観できそうにない。このような森さんの人生哲学を支えているのが「巻紙思考」だ。地球の歴史を記した年表の上に,私たちになじみの深い西暦1~2000年を1 mmで示すと年表の長さはどれぐらいになるかと考えると,森さんのような大きな自然観が身につくらしい。地球の歴史を約40億年とすると,2000メートルの巻紙が必要になる。…

◆本題では,建設業の特質を分かりやすく教えていただいた。まず売ってから製造を始めるという変わった業種で,現地生産のために固定的な作業員を持てず 下請けに頼らざるを得ないとのことだが,一言でいうと「総合芸術」のようだ。…

◆森さんがたどり着いた人生の指針は 逆説的であるが 若い人の参考になろう。(1)失敗は成功の墓場である: 「何で これができないの」という失敗をしてはいけない。大事な仕事を任されることはなくなり,成功への道がとざされる。(2)マンネリはいいことだ: ルーティンワークはコンピュータ化にうってつけだ。飲み屋もマンネリ化すると,馴染みの客として,黙っていても好きな飲み物とつまみを出してくれるようになる。(3)3Kもいいじゃないか: 汚い・きつい・危険の頭文字が3K。これをよしとして汗水流すのが東工大流だ。華麗さで競っては勝ち目がない。(4)合理的浪花節: これは森さん本人の言葉以外解説は難しい。建設業のプロとして生きるための極意と承った。人間集団をまとめるための極意でもある。(5)優しさは暖かさ,優しさは美しさ,優しさは強さ: 森さんはこの言葉が好きだそうだ。好きな言葉を繰り返していると,その化身になれるのかも知れない。森さんを観察しながらそう思った。

蔵前ゼミの印象記は下記サイト
http://www.bio.titech.ac.jp/event/kuramae.html

コラム2

守友貞雄(元セイコーインスツルメンツ副社長)の横顔

<蔵前ゼミ(第7回,2009.5.15)の印象記からの抜粋>

…70代半ばとは とても思えなかった。洒落が得意で,これが若さの秘密かとも思った。「家内を尊敬しているので,“お”の字をつけています。おっかない」といった具合だ。名前を忘れないで覚えてもらえるという自己紹介も見事だった: 「昔は,友を守る“守友”ですといっていたのですが,この頃は 友に守ってもらっている“守友”です」。…

◆時計がゼンマイ仕掛けだった頃は,ヒゲ ゼンマイの厚さ精度が時計の正確さを決めていた。そしてスイスが圧倒的に強かった。守友さんはバラつきを0.1ミクロン以内に抑える方法を考案し,これならスイスに勝てると国際コンクールに臨んだ。予想通り,1位から9位までをセイコーが独占し,スイスはようやく10位に入った。主催者であるスイスの技術を世界に宣伝するためのコンクールだったので,翌年から中止になったそうだ。守友さんが担当したのは工作機器の製作で時計そのものではなかった。工作機器は受注に波がある。そこで,工作機器を使って新商品も開発し安定化を狙うことになった。手がけたのが車用クーラーのコンプレッサー。小形化に成功したが,新参ゆえ販路の開拓が思うようにいかない。ようやくガソリンスタンドでの細々とした販売にこぎつけた。ところが,しばらくすると奇妙なビラが出回ったそうだ。中傷して売れないようにしようとしたもので,卑劣な手と怒りたくなるが,守友さんは,それで確信したそうだ。「うちのは本物だ。ビラは,他社が恐れをなした証拠だ」と。カークーラーのスイッチを押したら,私たちの大先輩である守友さんと守友さんの言葉を思い出そう:「失敗から逃げ出すと大失敗になってしまう」。では どうするか。失敗しても決して言い訳はせず,諦めなければ いずれ克服できるそうだ。それには“恥”をかく覚悟だけはいる。プライドを捨てなさいということのようだ。確かにプライドが高すぎると失敗を恐れるあまり,挑戦的なことをしなくなる。これも人生だが,プライドにこだわらなければ,他人に何でも聞けるというメリットもある。人は聞かれると自分が評価され,頼りにされたようで嬉しいからよく教えてくれる。一人で調べても時間ばかりかかって損だ。話の最後で強調されたのは“いきがい = 自己実現”ということだったが,これにはマズローの心理学を読むといいらしい。心理学(人間学)といえば,大いに納得した守友語録もあった:「締め切りがないと仕事ができないのが人間」だそうだ。…

◆漢字の書き取りテストで「じんざい」と出たら何と書くか。「人材」が一般的だが,守友さんの正解は「人財」らしい。人在・人罪・人災もあって面白かった。参考までに,「人在」は窓際族のことらしい。…

コラム3

東京工業大学博物館 特別企画展
「核時代を生きた科学者 西脇安」

2014.10.11~30 於: 百年記念館1階

日本の放射線生物物理学の草分けの一人である西脇安(➍,にしわき・やすし,1917~2011,本学名誉教授)。その生涯を通じて彼は,放射線被ばくと原子力の問題に向き合ってきました。核時代の黎明期に日本陸軍の原爆開発に参加し,ビキニ核実験時には「汚い水爆」の解明につながった「死の灰」の調査とその海外への発信,さらに国内外の原子力政策に関与し,福島原発事故の報道の中で他界しました。本企画展では西脇の足跡を辿り,核時代を生きた一科学者が,どのように信念を貫き,社会と関わったかを考えていきます。

展示概要

1. ビキニ事件とは
第五福竜丸の被災と「死の灰」
西脇安らの放射能測定
原水爆禁止運動へ

2. 西脇安と欧州へのビキニ被災報告
J. Rotblatとの出会い
B. Russellへの影響
「ラッセル・アインシュタイン宣言」と湯川秀樹
パグウォッシュ会議へ

3. 西脇安と原子力
国際遺伝学会シンポジウムからモスクワへ
東海原子炉と西脇安
ライナス・ポーリングに招かれて
東工大原子炉研教授時代(1960~1970)
国際原子力機関IAEA時代(1968~1977)

展示会では下記のような冊子を配布しました。日本語版に加え,英語版(図➍)をも作成し,世界に向けて情報を発信しました。特に2015年に長崎で開かれたパグウオッシュ会議で主要な参加者に配布し,好評を得ました。下記Webサイトでご覧いただけます。

日本語版:
http://www.cent.titech.ac.jp/DL/DL_Publications/cent_pamphlet201410.pdf
英語版:
http://www.cent.titech.ac.jp/DL/DL_Publications/Nishiwaki%20Yasushi%20Exhibition%20Brochure_R7_low.pdf

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➍西脇安

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➎ 学生歌「春らんまん」を作曲した木下航二。
出典:日比谷高校卒業アルバム(昭和44年3月)
写真提供:佐藤年緒(1975年 社会工学科卒)

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蘇った学生歌

2014年9月(初版)
2021年4月(web版)
(発行) 東京工業大学 博物館 資史料館部門


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