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東工大と千葉大の意外な関係

本学は近代デザイン史に大きな足跡を残し千葉大にバトンを渡した

カッコよくて使い易くなければモノは売れない。モノが売れなければ国は立ちゆかない。このようにデザインに国の興亡がかかっているという考えのもとにいち早く本学に設置されたのが工業図案科だった(1897〔明治30〕年)。これが紆余曲折を経て,現在の田町キャンパスに工芸を専門とする新しい学校を創設することにつながり,それが戦災の影響で千葉県に引っ越していたことから,戦後の学制改革で,千葉大学ができる際の原資の1つとなった。戦災を免れ,田町に残っていた部分が本学に移管され,現在の附属科学技術高等学校になっている。附属高校が,一時期,千葉大の附属だったといわれるゆえんだ。工業デザインの“ゆりかご役”を果たした本学の工業図案科と“乳母役”を果たした人たちにスポットライトを当ててみることにしよう。

1. 先見の明

およそ100年前,本学の前身である東京工業学校に工業図案科が手島精一(1850~1918)校長の鳴り物入りで設置された1, 2)(1897〔明治30〕年)(図➊最終頁, ➋)。工業製品は,性能はもとより,使い易く美しくなければならないという考えに基づくもので,先見の明があった。ところが,学科整理の名のもと3),デザインならば芸術を専門にする東京美術学校(東京芸術大学の前身)が適当だろうということで,15年後に,工業図案科は在学生もろとも東京美術学校に移されてしまった(1914〔大正3〕年)(図➊,➌)。一見,理にかなった措置のようだが,美術学校となると工学的要素がうまく教えられない。そうなると追求すべき「機能美」から大事な「機能」が落ちてしまう。もっと具合が悪いことに,東京美術学校設立のいきさつ(我が国の伝統的美術の保護を目的として1887〔明治20〕年に設立)から分るように,日本美術に重きが置かれ,合理的な西洋美術は軽んじられていた。美術学校に洋画科が設置されたのは開校9年後の1896年になってようやくのことだった。そして致命的だったと思われるのは,工場実習ができなかったことだ。本学の工業図案科の時は,絵画等の授業に加え,併設の工場における実習を重んじることにより2),量産した実用品に図案を転写する技術の習得にも力が入れられていた。この点は就職で有利に働き,学生には魅力的だった。

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➋工業図案科の実習室1(1913〔大正2〕年,蔵前)。廃止の直前だが,何の前触れもなく,平穏そうに見える。この他,実習室2もあった。

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➌東京美術学校の校舎(委託後間もない1915〔大正4〕年,上野)

2. 先見の明を曇らせたもの

工業図案科廃止の裏でもっと大きな合併話(東京帝国大学と一緒になるような話)が動いていた可能性がある。正式な記録としては,「大正3年(1914)9月学科整理の趣旨を以って本科は東京美術学校図案科に合併せられ当時在学の生徒教育はその卒業まで同校に委託することとなれり」3)としか書き残されていないが,手島校長と文部省の間で,本学の大学昇格をめぐって密約が交わされていたと思われるふしがある。工業図案化の廃止に触れた当時の関係者の一文に「…例の昇格問題…」4)という記述があるからだ。恐らく,高等工業学校を大学に昇格するには,学問とは程遠い(と一般的に思われていた)図案科をかかえたままでは難しいといわれ,工業図案科の切り離しを飲まざるを得なかったのだろう(工芸製品等を主とする軽工業から重工業に重点が移りつつあった当時の時代背景も工業図案科の存続を難しくしたのかも知れない)。次のような見出しを掲げた当時の新聞記事も密約説を支持する:“高等工業は帝大工科と合併圖案(ずあん)科に紛擾起る”。5)

しかしこの密約は実行されず,(i)工業図案科の廃止と(ii)在校生の東京美術学校への委託のみが決まるという本学にとっては最悪のシナリオとなった。念願の大学への昇格が決まるのは,それから15年後のことだ。

3. 蔵前のデザイン魂は生き延び芝浦の地で新たな芽を出した

高等工芸学校の創設

工業図案科が廃止され,美術学校に併合された時の科長・松岡壽(ひさし,本学には1906〔明治39〕年に赴任)らは,併合を遺憾とし,工芸図案に関する高等教育機関の必要性を訴え続けた。本学出身の安田禄造(1902〔明治35〕年に工業図案科卒)も,357頁にも及ぶ本『本邦工芸の現在及将来』(1917)6)を書いて「工芸富国論」を展開し,松岡さんと共に闘った。美術学校に移った関係者の不満も次第に高まり,美術学校からの分離独立の機運がくすぶり始めていた。おりしも文部省が高等工業学校の拡充に乗り出そうとしていた時期で,政策にも合致することから新設の1校(東京高等工芸学校)として実現することになった(1921)(図➊)。松岡さんは,本学(東京高等工業学校)教授の吉武栄之進や安田禄造らと共に東京高等工芸学校創立委員(7名のうち4名までが本学関係者)を嘱託され,1年近い準備の後に,念願の「東京高等工芸学校」の設置にこぎつけた。工業製品を美しく,かつ機能的に創造する技術という意味で工芸と名付けた。工業学校と工芸学校の両方に力を入れ人材を育てなくては,日本の産業ひては国力の発展は望めないと考えてのことだった。鑑賞のための「美術工芸」に対し,美麗なる製品のための「産業工芸」の必要性を唱えたのだ。

本学の工業図案科の人たち(図➍)は,富国の方策として,産業のバランスのとれた発達を図ることが重要だと主張した。紡績業でいえば,単なる織糸や無地の綿織物を作っているだけでは,いずれ中国やインドに追いつかれてしまう(1909〔明治42〕年には我が国は清国を抜いて生糸の世界一の輸出国となっていた)。それらを更に付加価値の高いものに加工し,増益を謀るべきだというわけだ。殖産興業のかなめとして国を挙げて振興に努めていた機械工業・電気工業・化学工業などの「科学的工業」に加え,「美術的工業」の必要性を唱えた。使いやすくて美しい製品といえば,SONYの井深大(1908~1997)と盛田昭夫(1921~1999)やAppleのSteve Jobs(1955~2011)が話題になるが,本学(の前身である東京高等工業学校)図案科の松岡壽や安田禄造らの果たした先駆的な役割を忘れてはならない。松岡壽は東京高等工芸学校で初代及び3代目の校長を,そして安田禄造は4代目の校長を務めた。

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➍蔵前時代の工業図案科のスタッフと学生(1906〔明治39〕年)。この年に,松岡さんが科長として着任した。2列目右から:手島精一校長,松岡壽科長,小室信蔵,安田禄造,広瀬東畝(名は済,日本画家)。出典:文献9, p402(森仁史,近代日本におけるデザインの創成—松岡壽と工芸教育,pp384–421)。

戦災そして千葉大と附属高校へ

新しく設置された東京高等工芸学校7, 8)の中心となったのは上記のように工芸図案科だったが,このほかに本学(東京高等工業学校)附属職工徒弟学校も移管された(図➊)。東京高等工芸学校は芝浦の地(現在の田町キャンパス)で,1922年の学生受け入れ以来,27年近くにわたって有為な人材を世に送り出していたが,1945年5月25日の空襲による火災で校舎の大部分を失い,千葉県の松戸市に移転を余儀なくされた。そして,戦後の学制改革で千葉大学が設置さる際の母体の1つとなり,工芸学部(後の工学部)として新たなスタートを切ることになった(1949)。唯一焼け残った附属工芸専修学校は附属電波工業学校と共に一旦千葉大学に移管されたが,東京(芝浦)にあったこともあり2年後に本学に戻され(1951),現在に至っている。

以上のように,(i)現在の東京工業大学附属科学技術高等学校は一時的に千葉大学の附属であったこと及び(ii)千葉大学の工学部の源が本学の工業図案科であることを考えると,本学と千葉大学は親戚といえよう。以下では,このような流れを作り,我が国に工業デザインを根付かせた2人のパイオニアの人物像に迫ってみよう。

4. 松岡壽(1862~1944,82歳)9–12)

生い立ち

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➎松岡壽自画像(1942〔昭和17〕年)
「禿げ(はげ)は文明病で,そして正直者で善良な証拠だ」が口癖だった。天気がいいと油絵の具のノリがいいのか,いつも上機嫌だったそうだ。逆に空模様が心配な時は,次女の弘子さんは出がけに「今日は傘がいるかしら?」と尋ねたというから,絵の具の具合で天気が分ったようだ。画才に恵まれていたので,画家として生計を立てることもできたはずだが,“家訓”(文献10, p146)に従い別の生業(特許審査官や教育職)を持ちながら,画業に取組んだ。特に多忙な校長職によって,画家としての才能を発揮する時間を奪われたことを惜しむ声が強い(文献10, p146, 179)。松岡さんの作品のうち,家族が一番大切にしていた20点がまとめて盗難にあっている(文献11, p128)。松岡さんの人柄を物語るエピソードとしてこんな話がある(文献10, p156–157)。松岡さんが農商務省の商品陳列館長をしていた時の部下が,親戚の洋画家(井上啓次)を訪ねて,「啓次さんは誰に絵を習ったのですか」と聞いた。「松岡壽先生だよ」と井上さんが答えると,「私の役所の長官と同姓同名だが,まさか…」,「そのまさかだよ。松岡先生はイタリアで9年近くも修業を積んだ人物画の第一人者だぞ!」,「それ程の大家でありながら,口にも顔にも出されたことがない。何と立派なことか…」と松岡さんの人格に改めて敬意を表したそうだ。

松岡壽(ひさし,図➎)は1862年岡山藩の武家屋敷に生まれた。祖父は関西における蘭学発祥の地である津山藩出身で,父は岡山藩の洋学研究者だった。9歳の時には藩の外国人教師(オスボーン)について英語を学ぶなど幼少のころから進取的な環境で育った。

1872年,明治政府に登用された父に従い上京。漢学塾に入ったが,漢学よりは絵に熱中し,手習いの時などはほとんど絵を描いていたそうだ。絵筆に親しむさまは,まさしく画の天才というにふさわしかった。こんなわけで,10歳で画塾に入った松岡少年は,4年後の工部大学附属工部美術学校の開設と共に,画学科に1期生として入学した(1877)。

抗議の退学

ここではイタリア人教師フォンタネージ(Antonio Fontanesi,1818~1882,58歳の時に3年契約で来日)から本場の技術を学んだ。フォンタネージは美術学校の新築計画を進めていたが,西南戦争の最中でうまくいかず,気落ちしていたところに脚気にかかり帰国することになった(1878)。フォンタネージが人柄・画風の両面で学生の心を強くひきつけ,学生たちから信頼・尊敬されたのに対し,後任のフェレッティ(Prosperro Ferretti,1836~1893)は教え方が稚拙な上に,人格が卑しく受け入れ難かったようで,当局に解任を申し入れたがかなわず,上級生一同(11名)が抗議の退学をした(1879)。郷里に帰ったものもあったが,大部分は11字会(入学が11月で,退学が明治11年に因んで命名)を結成して,“自然”を師にお互いに研鑽を積むことにした。しかし,彼らの目は次第に外国に向くようになっていった。

留学先のイタリアで岡倉天心・フェノロサと対峙

松岡青年も真剣にヨーロッパ行きを考え,外国人教師についてフランス語を学ぶなど準備をしていたところ,父と親交のあった外交官の推薦を得て,駐伊公使の秘書格(従者)としてイタリア行きが実現した(1880)。当時は秘書格として官費で2名まで同行できたようだ。1887年の帰国までの8年余り,主としてイタリアで学び,その間に国立ローマ美術学校の人物専門科を一等賞を得て卒業している。この間に,東京美術学校(後の東京芸術大学)設立のために欧米美術の視察に来ていたフェノロサや岡倉天心と面会している。

フェノロサは「油絵は美術ではない。むしろ日本の国粋美術を害する毒であるから,一刻も早くこれを排斥・駆逐するに越したことはない…」と考えていたふしがあり,激論になったそうだ。松岡さんは,彼らの西洋美術に対する感性のなさ(偏狭さ)を嘆いている。案の定,岡倉使節団は西洋美術には学ぶべきものが無いという趣旨の報告をし,東京美術学校も洋画科がない状態でスタートした(1887)。

手島校長にスカウトされて本学へ

留学を終えて帰国した松岡さんは,洋画家として活躍するかたわら,当時の日本美術偏愛の風潮を正すべく,西洋画の地位向上に努めた。純粋美術の他,美術工芸品の向上にも熱心で特許局審査官として産業としての工芸品の発展にもつくしていた。そんなところを本学の手島校長に見込まれ,工業図案科の科長として迎えられ(1906〔明39〕年),工業デザイン分野の教育に力を注いだ。「工業図案科は何となく軽んじられている」というのが赴任当初の印象だったようで,ここでも専門分野の地位向上に努めることになる(文献10, p61)。科学万能の学校ゆえ趣味的方面はあまり理解されていないのだと分析し,意匠が重要であるにもかかわらずそれまで没交渉だった窯業科や染織科との連携を深めていった。さらに,工業図案科以外のすべての学科に認められていた教員の海外派遣(学科当たり毎年1名)も実現した。その最初の例となったのが次項で紹介する安田禄造助教授だった(文献10, p61–62)。

当時の工業図案科(定員10名)の入試倍率は5倍を超え,展覧会や懸賞募集の当選者の多くは本学学生・出身者が占めるという状況で,商工業界に置いても重きをなしていた(文献10, p69)。美術学校の図案科(定員10名)の場合は入試科目が少なく受験に有利だったにもかかわらず倍率は3倍,京都高等工芸学校図案科(定員40名)の場合は2倍程度だった。

青天の霹靂

前途洋々たるものがあると信じていた矢先,突然文部省から「工業図案科を廃止し,新入生を含む在校生を美術学校に併合する」との方針が伝えられた。デザインを軽んじることは,工業製品に依存せざるを得ない日本の将来を誤る愚策だと卒業生までも巻き込んで反対運動を展開したが,政府の翻意を引き出すことは出来なかった。唯一勝ち取った譲歩は,学生の教育は美術学校に委託するが,卒業にあたっては東京高等工業学校名にするということだけだった(「学生諸氏は,“高等工業(東京高等工業学校)”たるがゆえにこれに志し,…」という父兄まで巻き込んだ訴えが官吏の心に届いたのだろう)。この時は,詳しい事情は不明だが,(秘密裏に事を進めた)手島校長もあまり頼りにならず(文献10, p71-72),上記のように学生たちが騒ぎそうになると,どうか穏便に事が進むように先方の校長とうまく話し合ってくれというばかりだった。結果的に,専任教官枠は減り,しかも関係の学生たちが卒業していなくなったら,全員辞めて欲しいというひどい内容を受諾せざるを得なかった上に,事務的サポートもほとんど得られなくなった。松岡さんは1年で美術学校教授を辞め,学生が卒業するまで非常勤で教えた。美術学校長は文部官僚上りの正木直彦(1862~1940,美術行政家)で工業デザインにはあまり理解がなかったようだ。

芹沢銈介も渦中の人だった

この騒動に巻き込まれた学生の中に,大石銈介(後の芹沢銈介,1895~1984,人間国宝となった染色工芸家)がいた13)(図➏)。彼は,本学(東京高等工業学校)工業図案科に入学し,日本のデザイン教育において草分け的な役割を果した松岡壽や次節で紹介する安田禄造らの薫陶を受けた。履歴上は本学の卒業だが,上述のように上野の美術学校で教育を受けた。最初の1年を蔵前で残り2年を上野で過ごした。

真の理由は不明だが,経費節減のための効率化を名目上の理由に,本学の工業図案科が美術学校の図案科に併合された時の経緯を記し,それは浅はかな愚策だと理路整然と批判しているメモ(文献10, p63–71)が残されている。洋風美術や工業デザインの軽視・排斥に立ち向かう姿は,温厚な松岡さんの意外な一面だったようだ。松岡さん自身こう述懐している:「私は気の弱い方で,喧嘩したり議論したりすることは嫌いであったが,是を是とし,非を非とする念が強かったので,…(理不尽な)排斥運動の話などを聞かされると,黙って居ることができなかった」(文献10, p38)。画家を目指して入学した工部美術学校の不手際(不適任な外国人教官の雇用)に抗議して松岡さんたちが退学したエピソードを紹介したが,その後日談として,一時は不手際を認めようとしなかった学校側も2年後(1880)にフェレッティを解任している。洋画科なしでスタートした東京美術学校にも9年後には洋画科が設置された。姿を消した工業図案科も,松岡さんの予見通り,8年後には時代の要請を受けて東京高等工芸学校として蘇った。このとき蘇生役として大きな働きをしたのが次に紹介する安田禄造だ。

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➏学生時代の芹沢銈介(1916〔大正5〕年,卒業アルバム)。学生時代同じ蔵前のキャンパスで過ごした仲間には各務鑛三・濱田庄司・河井寛次郎がいた。窯業科では板谷波山が嘱託として実技指導にあたっていた。本学の工業図案科と窯業科には後に工芸界で活躍する錚々(そうそう)たるメンバーが集まっていた

▼各務鑛三(かがみこうぞう,1896~1985,ガラス工芸家)工業図案科選科18)1914年卒

▼河井寛次郎(かわいかんじろう,1890~1966,陶芸家,文化勲章辞退)窯業科1914年卒

▼濱田庄司(はまだしょうじ,1894~1978,陶芸家,人間国宝,文化勲章)窯業科1916年卒

▲板谷波山(いたやはざん,1872~1963,陶芸家,文化勲章,東京美術学校1894年卒)窯業科嘱託1903~1904, 1906~1913年

5. 安田禄造(1874~1942,68歳)14)

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➐安田禄造の肖像画(1941〔昭和16〕年,久米福衛画)

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➑著書(1917〔大正6〕年出版)

ウィーンから帰国直後の学科廃止

安田禄造(ろくぞう,図➐)は1874年(明治7)東京に生まれ,1898(明治31)年に埼玉県師範学校を卒業した。小学校の訓導(現在の教諭)を経て本学(東京高等工業学校)に入学し,1902(明治35)年に工業図案科を卒業した15)。当時は旧制中学を経ずに,師範学校などから本学に入学し,個性豊かな才能を開花させていった人たちが多かった。安田さんもその一人で,卒業と同時に工業図案科の助教授になった。その後,1910年(明治43.9.28)にオーストリアに留学し,ウィーン工芸学校のホフマン(Josef Franz Maria Hoffmann,1870~1956)について学んだ。ホフマンは建築家かつデザイナーとして知られ,モダンデザインへの道を切り拓いた先駆者の一人で,現実的で実用的な様式を追求していた。この姿勢は本学の工業図案科が目指していた方向と合致し,得るものが多かった。安田さんは,その後西欧各地を巡り,1914年(大正3.1.30)に帰国した。同年,教授に昇進したが,その数か月後に工業図案科は廃止され,東京美術学校に併合されるという一大事にみまわれた。関係者には,まさしく青天の霹靂だったようだ。安田さん一人だけが本学に残され,工業図案科の在校生全員と教官が東京美術学校に移された。

近代デザイン史の中の蔵前人

安田さんは図案集や評論書の出版にも努めた。1909~1910年にかけて,「図案集」(第1集,第2集)を同僚の鹿嶋英二(1874~1950)と一緒に編集している。このときの出版社「深田図案研究所」は本学の工業図案科出身の深田藤三郎と小室信蔵16) が協力して名古屋に創設したもので,雑誌「現代の図案」を創刊するなどデザイン界の牽引役を果たしていた。安田さんが帰国後に,工芸振興の必要性を訴えるために“時事新報”に42回(1916〔大正5〕年12月~1917年1月)にわたって連載し,単行本としても出版された『本邦工芸の現在及将来』(図➑)(廣文堂書店,1917〔大正6〕年)は,工芸に重点を置く東京高等工芸学校(千葉大工学部の前身)の創設を強力に後押ししたといわれる。本学の工業図案科は人材育成面のみならず,執筆活動でも揺籃期の我が国の工業デザイン界において中心的な役割を果たしていたのだ。

工業図案科の廃止後も本学に残っていた安田さんは,芝浦に新しく東京高等工芸学校ができると,その設置準備委員だったこともあり,そこに移籍した。東京高等工芸学校では工芸図案科の教授として,工芸史や図案を教えるとともに,上述の松岡壽(初代及び第3代校長)の後を受けて,本校及び附属工芸実修学校の校長を長く務めた(1928〔昭3〕年4月14日~1941[昭16]年3月31日)。校長退任の翌年,68歳で亡くなった。

6. 発祥の地記念碑

親戚である証

田町キャンパスの南東隅に「東京高等工芸学校創設の地」と記した記念碑がある(モニュメントは当時の校章を表している)(図➒)。東京高等工芸学校・東京工業専門学校・千葉大学工学部の同窓生が2001年に創立80周年を記念して建立し,本学に寄贈したものだ。塀のすぐ外には,港区教育委員会が立てた標柱と説明板がある。JR田町駅からは,附属高校の入り口を通り過ぎた先の角だ。駅に近い方の角(北側,歩道の窪み)には,「東京高等工芸学校の沿革」を記した銘板と日本で始めて電波による試験放送に成功したことを記念する「放送記念碑」17)がある。

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➒田町キャンパスと記念碑の場所
東京高等工芸学校発祥の地(緑↓:港区,黄色↓:千葉大同窓会寄贈)と放送記念碑(赤↓)

参考文献と注

1) 手嶋精一,“圖案科設置の理由”,「圖按」創刊号,大日本図案協会,5–7頁,1901年。
2) 機能や生産過程(工業)を理解した者が形をデザインしたり,図案を描いたりして初めて生きた製品ができるゆえ,工業学校にこそ図案科をおくべきだと考えて,手島校長は本学に工業図案科を設置した。工業図案科はまず附設工業教員養成所内に創設され(1897〔明治30〕年3月),2年後に本科へと改組された(1899〔明治32〕年9月)。東京高等工業學校四十年史(p67–68)には「…(量産品に応用し得る)技能を有し,かつ製造上の学理を知りたる図案者…」を養成すると記されている。そのために,「…本科生徒には,意匠図案を授くるに止まず,各自志望学科の工場に於いて実技を練習せしめ…」としている。
3) 學制頒布五十年記念東京高等工業學校四十年史,68頁。1915〔大正5〕年以降の卒業生は53名。
4) 森井健介(1887~1976,東京美術学校教授),「松岡壽先生」<復刻版>,松岡寿先生伝記編纂会編,中央公論美術出版,140頁,1995(原版は1941)。
5) 国民新聞1914〔大正3〕年8月23日号,5面“高等工業は帝大工科と合併圖案科に紛擾起る”。(紛擾,ふんじょう,もめごと)。
6) 安田禄造,「本邦工芸の現在及将来」,広文堂書店,1917.
7) 東京高等工藝學校一覧,昭和四年
8) 松戸市デジタル美術館,図録「デザインの揺籃時代:東京高等工芸学校のあゆみ1」,1996.
9) 青木茂・歌田眞介(編),「松岡壽研究」,中央公論美術出版,2002.
10) 松岡寿先生伝記編纂会編,「松岡壽先生」<復刻版>,中央公論美術出版,1995(原版は1941)。
11) 隈元謙二郎(編),「松岡壽」,発行:神奈川県逗子市西川弘子,1976.
12) 松戸市デジタル美術館,図録「松岡壽とその時代」,2002.
13) 片多祐子,“近代染色工芸の成立と芹沢銈介––染色家以前の軌跡1895–1929”,第13回文化資源学研究会,2008年。
14) 岡昌代,坂本勝比古,宮崎清,望月史郎,“日本における近代デザイン史研究(2):安田禄造著『本邦工芸の現在及将来』に見られる主張の解析”(日本デザイン学会第32回研究発表大会),デザイン学研究,No. 52,52頁,1985年。
15) 厳密には,安田禄造が入学した時点では工業図案科は附属工業教員養成所にあったので,附属工業教員養成所図案科卒業となる。工業図案科が本科に移されたのは,1899〔明治32〕年9月。
16) 小室信蔵(1870~1922)は安田禄造より4歳年上で,附属工業教員養成所・工業図案科を1900(明治33)年に卒業し,工業図案科の助教授として将来を嘱望されていたが体調を崩し,1908(明治41)年に愛知県立工業学校の教諭として転出した。名古屋高等工業学校(1905〔明治38〕年設立)の講師も務めた。小室が初期の著作“通俗図案法”(雑誌「図按」18~21号,1903〔明治36〕年)に続いて出した著書「一般図按法」(1909〔明治42〕,丸善)は我が国初のデザイン指導書として版を重ね,1924年には第10版が出版された(小室さんの没年は1922)。参考文献: 緒方康二,明治とデザイン: 小室信蔵の方法論,夙川学院短期大学研究紀要4, 42–58, 1979.
17) 銘板の文章:ここは大正十四年三月二十二日わが国最初の放送電波が発せられたゆかりの地です。東京放送局が,当時ここにあった東京高等工芸学校の図書室を仮放送所としてラジオ第一声を送り出しました。この放送発祥の地に,放送開始三十周年を記念して〔放送記念碑〕を建立したものです。日本放送協会
18) 選科:各学科に作られた特別コースで,工業学校の卒業者ないしは3年以上の実務経験のある人が入学した。製造に関する学理を2年以内に習得させることを目的に設置されていた。頑張り屋で有名だった各務鑛三は1年で工業図案科選科を修了し,卒業と同時に板谷波山の後任として窯業科の嘱託になっている。各学科の選科卒業生は1~3名と少なかった。

2014年7月(初版)
2021年4月(web版)
(発行) 東京工業大学 博物館 資史料館部門


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