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米国で建築学を学んだ初代建築科長 −滋賀重列

滋賀重列(1866-1936)は、1902(明治35)年に設置された建築科の初代科長を務めた人物で、蔵前キャンパスの本館をはじめとする主要建築を設計した、本学最初のプロフェッサー・アーキテクトです。

 滋賀重列は、徳大寺家の家職を務めた滋賀家に長男として生まれ、幼少時は錦華小学校(現・お茶の水小学校)から府立一中(現・日比谷高校)へと進学し、どちらも一期生として卒業しました(ともに夏目漱石と同級)。その後、1887(明治20)年に米国に渡って現地で語学を学び、1889(明治22)年にシカゴのイリノイ大学シャンペーン校の建築学科に入学し、そこで米国式の建築学を学びました。イリノイ大学には帰国後に修士論文を提出し、1905(明治38)年には修士号も取得しています。

卒業後すぐには帰国せず、当時現地で開催されていたシカゴ万博(1893(明治26)年5-10月)関連の仕事をしていたところ、農商務省の臨時博覧会事務局事務官としてシカゴ万博を訪れていた手島精一の知遇を得て、翌1894(明治27)年7月に新設されたばかりの東京工業学校附設教員養成所木工科に教員として招かれ(1896(明治29)年より教授)、やがて1902(明治35)年に本科に建築科が新設されると、その初代科長を務めました。講義科目では主に衛生建築、工場建築などを担当しました。

滋賀はまた、1899(明治32)年からは文部技師を兼任し、同年に始まる第二次拡張計画では本館や工場の設計を手掛けました。滋賀は定年後も講師として残り、関東大震災後には教え子の橘節男(4代目科長)とともに大岡山キャンパスの復興建築の基本計画策定に携わりました。

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滋賀重列

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イリノイ大学の卒業記念写真

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