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展示解説

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東京工業大学博物館に展示中の収蔵品の解説を集めました。
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#展示

ビタミンB₂の工業的製造の研究 ー星野敏雄・佐藤徹雄

ビタミンB₂は、1879年A. W. Blyshにより牛乳黄色色素ラクトクロームとして報告された動物の成長促進因子のことです。現在では、フラビン酵素やフラビンアデニンジヌクレオチド(FAD)の形で広く生体内の酸化還元反応に関与している事が知られている一種の補酵素です。その構造は、1936年P. Karrer及びR. Kuhnにより決定され、世界各国で合成研究が行われていました。 星野敏雄(1899-1979)・佐藤徹雄 (1908-1968)両教授は、1942年から研究を始

高安定水晶振動子の実現 古賀逸策

 板状の水晶に交流の電圧を加えると、水晶板の大きさに応じた、ある固有の周 波数で電気信号が強調される。この性質を利用した〈水晶振動子〉という小さな 部品は、私達の身の回りにある、通信機器や時計などの電子機器に用いられている。 古賀逸策は、この水晶振動子の高精度化と実用化を飛躍的に進めた。この水晶の性質は 1922年ケイディーによって発見され、翌1923年にはピアースが真空管と組み合わせ、無線通信に利用する発信回路を開発する。1929年、東京工業大学助教授となった古賀は、その将

ロボット学事始めとロボコン ― 森政弘

森政弘(1927年三重県生まれ)は、1969年に東京大学生産技術研究所から本学制御工学科に教授として着任しました。 東大生産技術研究所時代の1967年に、研究室内で創造性開発のために「自分が乗って階段をのぼることができる機械」というテーマのアイデアコンテストを企画しました。その時優勝したのは、当時大学院生であった村上公克(まさかつ)君のアイデアです。展示されている6足歩行ロボットは、そのアイデア実現の予備実験として試作された模型で、どこでも歩くことができる機械―Genera

型染絵による美の表現 −芹沢銈介

芹沢銈介(1895-1984)は、静岡市でも屈指の呉服太物卸商「大石商店」の7人兄弟の次男として生まれ、1913(大正2)年に東京高等工業学校図案科に入学して工業デザインの基礎を学びました。卒業後は、故郷の静岡市に戻って静岡工業試験所の技師として地元静岡の業者や職人に蒔絵・漆器・木工・染色・紙などの図案の指導を行い、その後も大阪府立商品陳列所図案課技師として意匠図案の調査・研究を行い、工業デザイナーとしての実績を積みました。 芹沢は、1927(昭和2)年に柳宗悦の論文「工芸

工業図案科の設置と図案教育の重視

手島精一(1850-1918)は、1894(明治27)年に附設工業教員養成所を設置した3年後に同所内に「工業図案科」を新設しました。その意図は、陶磁器や漆器・木工品、織物といった伝統的な工芸品の近代化と販路拡大には、当時急速に発達してきた印刷技術の応用に適した新たな意匠「図案(Design)」の開発と、それを担う人材の育成が必要と考えたためでした。工業図案科の教員には、当時としては数少ない海外におけるデザイン教育経験者が集められました。 工業図案科の授業では、3年間かけて意

蔵前キャンパスの整備

隅田川沿いの蔵前キャンパスは、江戸時代には幕府の年貢米を収蔵する米蔵が立ち並ぶ「浅草御蔵」と呼ばれた土地で、1882(明治15)年に上野に移転した「浅草文庫」の跡地が東京職工学校の土地として交付されました。その年の12月には洋風煉瓦造の校舎が、続いて拡張された敷地に各学科の工場が竣工し、実業学校としての教育環境が整いました。1890(明治23)年には第二代校長として手島精一が着任し、校名も東京工業学校に改名されました。 隅田川から見た蔵前キャンパス 日清戦争が終結した18

米国で建築学を学んだ初代建築科長 −滋賀重列

滋賀重列(1866-1936)は、1902(明治35)年に設置された建築科の初代科長を務めた人物で、蔵前キャンパスの本館をはじめとする主要建築を設計した、本学最初のプロフェッサー・アーキテクトです。  滋賀重列は、徳大寺家の家職を務めた滋賀家に長男として生まれ、幼少時は錦華小学校(現・お茶の水小学校)から府立一中(現・日比谷高校)へと進学し、どちらも一期生として卒業しました(ともに夏目漱石と同級)。その後、1887(明治20)年に米国に渡って現地で語学を学び、1889(明治

フェライト研究 加藤与五郎・武井武

加藤与五郎・武井武によるフェライト研究フェライトとは、酸化鉄を主成分とする磁性材料で、戦前から戦後にかけてスピーカーやモーターの磁石、磁気テープやコンピューターの磁気ディスクなどに使われ、現在でもテレビやパソコン、携帯電話、ハイブリッドカーや風力発電など、電気・電子機器の小型・薄型・高機能化、省エネ・省資源化にも大きく寄与し、現代エレクトロニクス社会を根底から支えています。 フェライトは、1930(昭和5)年に東工大の加藤与五郎教授(1872-1967)と武井武助教授(18

絶対零度への挑戦 —木下 正雄 ・ 大石 二郎

絶対零度は-273.15℃ 高校の教科書に載っているこの数字の小数点以下2桁目の決定打を放ったのは東工大でした。 本学が大学(旧制)に昇格して間もない頃に新設された物理学教室の木下正雄と大石二郎は、測定の中でも最も難しいとされる温度の精密測定に成功しました。 ドイツ滞在中に、日本の温度測定技術の未熟さを指摘された木下は、1932(昭和7)年に東工大に着任すると、大石を助手として呼び、温度の精密測定に取りかかります。既に世界では2つのグループが精密測定用の気体温度計を作り

オートファジーの仕組みの解明 ー大隅 良典

研究概要 オートファジーの歴史は、半世紀以上前に遡ります。1963年、ベルギーの生化学者のクリスチャン・ド・デューブ博士は、細胞が自身の細胞質成分の一部を膜で包み、消化酵素を含む小器官の「リソソーム」に運んで巾着状の小胞を形成し(オートファゴソーム)、分解する現象を観察し、オートファジーと名付けました。 オートファジー(autophagy)という言葉は、ギリシャ語で「自分」を意味する"auto-"と「食べる」を意味する"phagein"に由来します。しかし、生化学的解析など

「電気を通すプラスチック」の発見 ー白川 英樹

研究概要白川は、東京工業大学時代、神原周教授らに学びました。研究室では、助手の旗野昌弘らが1960年代初期からポリアセチレンの研究をしていました。当時のことを、白川はこう記しています。 「神原・旗野グループは、多くの困難を克服しながら電気的・磁気的性質の研究を行い、世界に先駆けてポリアセチレンが典型的な半導体、すなわち有機高分子半導体であることを明らかにした。ただ、粉末を試料とする限り、諸物性の測定には限界があった」 (白川英樹「現代の錬金術-電気を通すプラスチック」IL

電気計測器

展示されている電気計測器類は、長年にわたって電気電子工学科の学生実験室に設置されていたものです。1924(大正13)年や1925年に購入された米国Weston社製の直流電圧計および電流計・電力計などは、1923年の関東大震災後、蔵前から大岡山にキャンパスが移転した際に購入されたものだと考えられます。それが90年もの間、使用可能な状態で残されていたことは驚きです。 長年大事に使われてきた理由の一つに、電気主任技術者制度があります。電気主任技術者は、事業用電気工作物の工事、維持

理論と実践を噛み合わせた歯車研究 —中田考

概要中田孝(1908(明治41)年~2000(平成12)年、東京浅草生まれ)は、1928年東京高等工業学校機械科を卒業、翌年4月、新設の東京工業大学機械工学科に第一回生として入学。卒業後は、母校の助手、助教授(精密工学研究所員)、教授、精密工学研究所長を2回勤めました。 中田は、豊かな独創力に加えて、物理的問題や応用数学等に強い興味を持ち、外国文献も積極的に調査しました。1929(昭和4)年頃、歯車運転試験のため水晶のピエゾ効果を使ったトルク計を自作。その試験の理論解析に独

生物の動きに発想を得たロボットの開発 —広瀬茂男

概要広瀬茂男(1947年東京都生まれ)は、1971年、横浜国立大学工学部を卒業し、東京工業大学大学院の梅谷陽二研究室に進学しました。広瀬は、東工大の修士学生として研究を始めたとき、「ヘビは足が無いのになぜ前に進めるのか」を解明することに決めました。 まず初めに、ヘビの運動を文献で調査し、仮説を立て、蛇行運動の基礎運動方程式を誘導しました。そして実際の動きを調べるため、渋谷のヘビ料理屋でシマヘビを買い、ヘビの体に電極を刺して蛇行の形や筋肉の活動の様子を実験しました。その結果、