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展示解説

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東京工業大学博物館に展示中の収蔵品の解説を集めました。
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#陶磁器

東工大で育った工芸・デザインの先導者達

概要 東京工業大学は、優れた陶芸家・工芸家も数多く輩出しています。本学は、日本にまだ工業が育っていなかった1881(明治14)年に、近代的な科学・技術を身につけ、西洋に劣らぬ優れた製品を創造できる技術者、それもリーダーとなる人を育て日本に工業を起こそうと建学されたためです。 建学当時問題となっていたのは、輸出製品の品質とデザインであり、例えば、陶器は焼成温度が低く、デザインは魅力に欠けていたのです。本学創設の強力な進言者であったドイツ人教師 Dr. ワグネルは、陶器玻璃工科

平野コレクション

平野耕輔(1871-1947)は、東京職工学校陶器玻璃工科を1891(明治24)年に卒業しました。ワグネルに師事し、外国留学後は東京高等工業学校の教授および窯業科長、旧南満州鉄道(株)窯業試験工場長、商工省陶磁器試験所長を歴任して斯界の発展に尽くしました。1940(昭和15)年、窯業学科主任として再び母校にもどり、1943年には初代東京工業大学付属窯業研究所長に就任しました。 当館の平野陶磁器コレクションは、1937年に商工省陶磁器試験所を退官した平野耕輔が、永年蒐集した窯

「縄文象嵌技法(じょうもんぞうがん)」を生み出した民藝の伝承者 ー島岡達三

島岡達三(1919-2007)は、河井寬次郎・濱田庄司らの生み出した民藝に心を揺り動かされて陶芸家を志し、師の濱田が拠点にしていた益子で思索・作陶を続け、「縄文象嵌」という独自の美を生み出ました。 1919(大正8)年、東京・愛宕の組紐師、島岡米吉の長男に生まれ、旧制高校三年生の時に、日本民藝館で見た河井寛次郎や濱田庄司の作品に感動し、陶芸家になることを決意します。1939(昭和14)年、東京工業大学窯業学科に入学。翌年、益子の濱田を訪れ、卒業後の入門を願い許されましたが、

益子を拠点に民藝の道を追求 ー濱田庄司

濱田庄司(1894-1978)は、神奈川県橘樹郡高津村字溝ノ口(現在の川崎市高津区溝口)で生まれ、1913(大正2)年、東京高等工業学校窯業科に入学し、2学年先輩の河井寛次郎らと出会います。卒業後は、河井が勤める京都市陶磁器試験場に就職し、釉薬の研究に取り組みました。 濱田は、京都や沖縄、イギリスなど各地で作陶をした後、栃木県の益子に定住し築窯、陶器制作を行うとともに、柳宗悦、河井寛次郎、バーナード・リーチらと民芸運動の中心人物として活躍しました。 1920(大正9)年、

科学的な眼差しと詩人の心  ー河井寛次郎

河井寬次郎(1890-1966)は、島根県能義郡安来町に大工棟梁の次男として生まれ、1910(明治43)年に東京高等工業学校窯業科に入学して近代窯業の科学的な基礎を学び、卒業後は京都市陶磁器試験場に就職し、主に中国古陶磁器の釉薬研究に取り組みました。 1920(大正9)年には京都五条坂にある五代清水六兵衛の登窯を譲り受け、「鍾渓窯(しょうけいよう)」と命名、住居と陶房を構え、本格的な作陶活動に入ります。翌年に開催した第一回創作陶磁展で中国・朝鮮古陶磁の手法を駆使した技巧的な